プラトン『国家 上』(岩波文庫)
第一巻
一、二 ソクラテスがポレマルコスの家に呼ばれる
三 ケパロス:端正で自足することを知る人間であれば、老年もまたそれほど苦にならないが、その逆であれば、老年も青春もつらくなる。
四 ケパロス:人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、また、人物が立派でなければ、金持になったからとて、安心自足することはけっしてないだろう。
ソクラテス:自分で稼いだ人は自分で稼いでいない人より金に愛着を寄せ、富以外のものは何ひとつほめようとしない。
五 ケパロス:自分の生涯のうちに数多くの不正を見出す者は、暗い不安につきまとわれて生きたりするが、我が身をかえりみて不正をおかした覚えのない者にはつねに楽しくよき希望があって、老いの身を養ってくれる。
ケパロス:富は、理をわきまえる者にとって最大の効用を持つ
ソクラテス:「ほんとうのことを語り、あずかったものを返す」ということは〈正しさ〉の規定としては通用しない
ここでポレマルコスが反論を始め、ケパロスは立ち去る。
六 ポレマルコス:シモニデスの言うことには、「それぞれの人に借りているものを返すのが、正しいことだ」
七 ソクラテス:それぞれの相手に本来ふさわしいものを返し与えるのが正しい
ソクラテス:(ポレマルコスの言う通りだと)正義とは、それぞれのものの、使用にあたっては無用、不用にあたっては有用なものということになってしまう
八 ソクラテス:かくて〈正義〉とは、友を利し、敵を害するための盗みの術の一種となる
ポレマルコス:「冗談ではありませんよ!」
ポレマルコス:〈正義〉とは友を利し、敵を害することである。不正な人間を害し、正しい人間を益することが正義である。
ソクラテス:(ポレマルコスの言う通りだと)人間が判断を誤る限り、実際には悪人である友に対しては善を与え、実際には善である敵に対しては益をなすのが正義となってしまう。
ソクラテス:良き人間である友に対しては善くしてやり、悪しき人間であるところの敵に対しては害を与えることが正義である
九 ソクラテス:相手が友であろうが誰であろうが、およそ人を害するということは、正しい人のすることではなくて、不正な人のすることなのだ。
ソクラテス:正義とはいったい何なのか、ほかにどのような主張が考えられるだろう?
一〇~一一 トラシュマコス乱入
一二 トラシュマコス:正しいことは、強い者の利益に他ならない。現在する支配階級=権力のある強い者の利益になることに他ならない。
一三 ソクラテス:支配者も誤って自分に不利益な事柄を制定してしまう以上、被支配者は支配者の言う通りにすることが〈正しいこと〉ならば、強い者の利益になることを行うことだけでなく、不利益になることをすることも〈正しい〉ことになる
ソクラテス:支配者・強い者たちに不利益なことを行うことも〈正しい〉ことである。
一四 トラシュマコス:支配者は、支配者たるかぎりにおいては誤ることがない。誤ることがない以上、支配者が法として課するのは、自分にとって最善の事柄であって、それを行うのが被支配者の務めである。
一五 ソクラテス:技術が探求する利益とは、その技術が働きかける対象にとって利益になることであるように、支配者が考察し命令するのは、支配される者の利益になる事柄なのだ。支配者の言行のすべてにおいて、彼の目は、自分の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になることに向けられているのだ。
一六 トラシュマコス:不正がひとたび十分な仕方で実現するときは、それは正義よりも強力で、自由で、権勢をもつものなのだ。そして〈正しいこと〉とは、強い者の利益になることにほかならず、これに反して〈不正なこと〉こそは、自分自身の利益になり得になるものである。
一七 ソクラテス:全ての支配は、支配を受け世話を受ける側の者のためにこそ、最善の事柄を考えるものだ。
ソクラテス:「しかし君としては、国の支配者たちが―(略)―みずからすすんで支配の地位につこうとするものだと思っているのかね?」
トラシュマコス:「思ってなどいるものか」「そうだということをよく知っているのだ」
一八 ソクラテス:支配は自分のための利益をもたらすものではなくて、支配される側の者の利益をもたらし、またそのようなことを命令するのである。その場合考慮されるのは、弱者である被支配者のほうの利益なのであって、けっして強者の利益ではないのだ。
ソクラテス:みずからすすんで支配者の地位につき、他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない、みんなそのための報酬を要求する。なぜなら支配者は自分自身のために最善になることを行うのではなく被支配者のために最善になることをこそ行うからだ。
一九 ソクラテス:立派な人物たちが支配者となるときには、自分より劣った人間に支配されるという罰を恐れて自分が支配者となるのだ。
ソクラテス:もしすぐれた人物たちだけからなるような国家ができたとしたら、支配の任務から免れることが競争の的になることだろう。
二〇 トラシュマコス:「正義」とは「世にも気高い人の好さ」であり、「不正」とは「計らいの上手」である。
トラシュマコス:完全な不正をなしうる人ならば、知恵もありすぐれた人間でもある。
ソクラテス:不正を徳と知恵の部類に入れ、正義をその反対の部類に入れるのか?
トラシュマコス:いかにもそれが私の考えだ。
ソクラテス:不正な人は、不正な人間及び不正な行為に対しても、その分をおかそうとするだろうし、誰よりも多くを自分の手に入れようと努めることだろうね?
トラシュマコス:そのとおりだ。
二一 ソクラテス:正しい人は、自分と相似た人に対しては、分をおかして相手をしのごうとせず、相似ない人をしのごうとするが、不正な人は、自分と相似た人に対しても、相似ない人に対しても、分をおかして相手をしのごうとする、と。
ソクラテス:不正な人は知恵があってすぐれた人間であり、正しい人はそのどちらでもないのだね?
ソクラテス:不正な人は知恵ある人とすぐれた人に似ているが、正しい人は似ていない、ということになる。
ソクラテス:知識と知恵ある人は自分と相似た人が為すのと同じ事柄を選ぶ。知識と知恵のない人は分をおかして余計なことをする。すぐれた人は、自分と相似た人に対しては、分をおかして相手より多くのものをしようとしないが、自分と相似ぬ反対の性格の人に対しては、そうしようとする。しかるに、劣悪で無知な人は、自分と相似た人に対しても反対の人に対してもそうしようとする。
ソクラテス:(トラシュマコスの言うことには)不正な人間とは自分と相似た人でも相似ない人に対しても分をおかして相手をしのぐような人であり、他方、正しい人間は、自分と相似た人に対しては、分をおかして相手をしのごうとせず、相似ない人をしのごうとする。
ソクラテス:してみると、正しい人間は知恵のある、すぐれた人に似ていて、不正な人間は劣悪で無知な人に似ていることになる。
ソクラテス:両者のそれぞれは、自分が似ている者と同じような性格の人間である。
ソクラテス:してみると、正しい人間は知恵のある、すぐれた人であり、不正な人間は無知で劣悪な人であることが、いまや、われわれに判明したわけだ。
二二 ソクラテス:ある国家が不正なやり方で他の国々を隷属させているとき、そのように強力になる国というものは、正義の助けなしにその力をもちうるだろうか、それとも正義の助けを必要とするだろうか?
トラシュマコス:ソクラテスの言う通りに正義が知恵であるとすれば、正義の助けを必要とするだろうし、自分の言った通りだとすれば不正の助けを必要とするだろう。
二三 ソクラテス:〈不正〉とはおよそ何者の内に宿るものであろうとも、不和と仲違いのために共同行為を不可能にさせ、自分を正しい者に対して敵たらしめるものだ。
ソクラテス:正しい人々のほうが、知恵においても徳性においても実行力においてもまさっていて、これに対して不正な人々のほうは、共同して行動を起こすことすらできない。
ソクラテス:不正な人々は共同して行動を起こすことができないが、それができた場合は、その者たちの中に何ほどかの〈正義〉が存在していたことになる。
ソクラテス:しかし、正しい人々は不正な人々よりも善き生を贈り、より幸福であるかどうかということを考察せねばならない。
二四 ソクラテス:生きることは魂のはたらきであり、正義とは魂の徳であるからして、正しい魂や正しい人間は善く生き、不正な人間は劣悪に生きる。したがって、正しい人は幸福であり、不正な人はみじめである。よって、〈不正〉が〈正義〉より得になるということは絶対にないのだ。
ソクラテス:〈正義〉それ自体がそもそも何であるかがわかっていなければ、それが徳の一種であるかないかとか、それをもっている人が幸福であるかないかとかといったことはとうていわかりっこない。
第二巻
一 グラウコン:〈善いもの〉に3種あり
第1:それをただそれ自体のために愛するがゆえにもちたいと願うようなもの
第2:それをそれ自体のためにも愛し、それから生じる結果の故にも愛する
第3:それら自体のためでなく、報酬その他、そこから生じる結果のゆえに、持ちたいと願う
ソクラテス:〈正義〉はそれ自体のためにも、それから生じる結果のゆえにも愛さねばならないものに属すると思う
グラウコン:多くの人々には、〈正義〉は報酬のためや、名声のために行わねばならないけれども、それ自体としては、苦しいから避けねばならないような種類のものだ。
二 グラウコン:〈正〉〈不正〉のそれぞれを純粋にそれ自体としてどのような力をもつようなものなのかということを聞きたい。
そこでトラシュマコスの説の諸点をもう一度振り返りたい。
グラウコン:第1に、〈正義〉とは、どのようなもので、どのような起源をもつものと一般に言われているか
第2に、正しいことをする人々はみな、それを〈善いこと〉ではなく〈やむをえないこと〉と見なして、しぶしぶそうしているのだ
第3に、不正の人の生の方が正しい人の生よりもはるかにましであると一般には言われている
グラウコン:〈正義〉の起源とは、自然本来のあり方から言えば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)の方が、人に不正を加えることによって得る善(利)より大きい。そこで人間は不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んで、その法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』と呼ぶようになった。
グラウコン:つまり正義とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの中間的な妥協である。〈正しいこと〉が歓迎されるのは、積極的な善としてではなく、不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。
三 グラウコン:正しい人と不正な人のそれぞれに、望むがままのことができる自由を与えてやるとどうなるか。(ギュゲスの身隠しの指輪の逸話)
グラウコン:身隠しの指輪が2つあったとして、それをはめてもなお正義のうちにとどまる志操堅固な者など一人もいまい。
グラウコン:何人も自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだ。
四 グラウコン:完全に不正な人間には完全な不正を与えて、彼は最大の悪事をはたらきながら、正義においては最大の評判を確保できる。他方、完全に正しい人間には、何一つ不正を働かないのに、不正であるという最大の評判を受けさせる。
グラウコン:この2人のうち、どちらがより幸せであるか。
五 グラウコン:正しい人間というのが先に述べたような者であるならば、人は正しくあることをではなく、正しく思われることをこそ望むべきだ、と思い知らされるだろう。
グラウコン:不正な人間は、神々に対し、正しい人よりもずっとよく尽くすことができるから、正しい人よりも、神に愛される者ともなる。
六 アデイマントス:人々は〈正義〉というものをそれ自体として讃えているのではなくて、〈正義〉がもたらすよい評判を讃えている。彼らは神々からよく評判されることまでも勘定に入れている。
アデイマントス:不敬虔な者、不正な者は、冥界で、本当は正しい人なのに不正だと思われている人たちについて述べた様々な罰を受ける以上のものではないと語られている。
七 アデイマントス:節制や正義はたしかに美しい、しかしそれは困難で骨が折れるものだ。放埒や不正は快いものであり、たやすく自分のものになる。不正が醜いとされるのは世間の思惑と法律・習慣のうえのことにすぎない。
アデイマントス:よこしまな人間であっても金その他の力をもっていれば、人はそれを祝福し尊敬しようとする。他方、正しくても貧乏な人間はこれを見下し、軽蔑しようとする。
アデイマントス:神々でさえも、善き人々に不運と不幸な生活を、悪しき人々にその反対の運命を与えることがしばしばある。
八 アデイマントス:〈みかけ〉こそが幸福の決め手となるものである以上、そのほうへと全力を振り向けなければならない。
アデイマントス:神々が存在しなければ、あるいは、人間のことには全く無関心であるならば、その目を逃れることに気を使わねばならないのか?
アデイマントス:詩人たちの言うことに従えば、神々は供物や祈りや奉納品で言いなりにできる。それならば不正を犯してその悪事を元手にして神々に供物を捧げれば無罪放免されるのではないか。
九 アデイマントス:我々は不正を人の目を欺く巧みな偽善の下に隠して所有しさえすればよい。
アデイマントス:自らすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ。人はただ力が弱いから不正行為を非難するけど、それは不正をはたらくだけの力が自分にないからだ。
アデイマントス:〈不正〉こそは魂が自己自身の内にもつ悪の最大のものであり、〈正義〉こそは最大の善であることを十分に証明した者は一人もいなかった。一方が善であり他方が悪であるのは、それぞれがそれ自体として、それ自身の力だけで、どのようなはたらきをその所有者に及ばせばこそなのかをよく示していただきたい。
アデイマントス:あなた(ソクラテス)が讃えているのは、〈正しいこと〉そのものではなくて、その評判であり、あなたがとがめているのは、不正な人間であることではなくて、不正な人間だと思われることなのだ。
一〇 ソクラテス:まずはじめに、国家においては〈正義〉とはどのようなものであるかを探求しよう。
一一 ソクラテス:国家の成立について
一二 ソクラテス:国家が成立したとき、そのどこに〈正義〉と〈不正〉はあるだろうか?
一三 ソクラテス:国家が次第に大きくなっていく
一四 ソクラテス:戦争と戦士について
一五 ソクラテス:国の守護者(指導者)には、穏やかであって、なおかつ気概のあるものが必要だ。
一六 ソクラテス:守護者はさらに知を愛する。彼らを育てるために教育を施さねばならない。
一七 ソクラテス:神話でも教育上子供に話してはならない題材について
一八 ソクラテス:神であるからには、真に善き者であるはずである。よって彼らは有害なものではなく、害を為すこともない。善いもの(神)は、あらゆるものの原因なのではなく、人間にとってわずかな事柄の原因ではあるが、多くの事柄については責任がない(原因ではない)。善いことについては神以外の何者をも原因とみなすべきではないが、、悪いことについては、その原因を他に求めるべきだ。
一九 ソクラテス:神はあらゆる事柄の原因なのではなく、ただ善いことの原因である。
二〇 ソクラテス:本当の偽り、つまり、真実に関して魂において偽り、偽りの状態にあり、かくて無知であること、そして魂の内の偽りをもちまた所有していること、これをどんな者でも一番受け入れたがらないし、そのような場合の偽りを何よりも憎む。
ソクラテス:言葉における偽りは、魂の内なる状態の模造であり、後から生じる影なのであって、全く純粋に混じり気のない偽りというわけではない。
二一 ソクラテス:本当の偽りというものは神々からだけでなく人間たちからも憎まれる。
ソクラテス:色々の物語においても、言葉におけるだけの偽りをできるだけ真実に似せることによって、それを役立つものとするのだ。
ソクラテス:神とは、全き意味において、行為においても言葉においても単一にして真実なものである。
ソクラテス:いやしくもわれわれの国の守護者たちが、神々を畏敬する人となり、人間として可能なかぎり神々に似た者となるべきである。