ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意思』(新潮社)

第2章「抑圧の仮説」

第2節:倒錯の確立

(まとめ)かつての性に関する禁止とは法的性質のものであったが、近代以降は性の「運用」に向けて権力が行使される場として性の言説の場が設けられた。多種多様な性的倒錯が設定されたが、その倒錯とは禁止ではなく、むしろ性的欲望を掻き立てるものであり、また性的でないとされる家庭という場もまた隠蔽されているがゆえの性的欲望の場である。性的欲望の網の目の言説によって性的欲望は増殖し多様化し続けている。

 

「性に関わる禁止命令は、根本的に法律的性質のものだった。その禁止の支えとされることもあった「自然」とは、なお一種の法律であった」(p49)

十八・十九世紀において「性現象の場で、「自然に反するもの」の特殊な次元を掘り起こ」した「残骸の中から、一方では結婚と家族の法律(あるいは道徳)に対する違反と、他方では自然的な機能の規則性に対する侵犯が出現する」(pp50-51)

「医学は、「不完全な」性的行為からあらゆる形態を注意深く分類し、それを本能の「発展」と「撹乱」へと併合した。その運用・管理を企てたのである」(p53)

「重要なのは」「そこで行使される権力の形式にあるのだ」(p53)

 

権力の形式とは

(一)権力は少年の性を追い詰め、狩り出したが、「人はこの悪習に永久に消え去るよりは、むしろ存続することを、可視と不可視の境界で増殖することを求めているのではないかという疑いを抱かしめる」「権力の標的は拡がり、幾つにも別れ、枝状に細分化して、現実の中に権力と並んで侵入していく」「[権力は] 少年の囲りに無限の侵入ラインをしつらえたのである」(pp54-55)

(二)「この雑多な[性倒錯]のすべてを追い回す権力の仕組みは、ただそれに、分析的で目に見えかつ恒常的な現実を与えることによってのみ、それを取り除こうとする。」「それらの一つ一つを、特定の場所で特徴づけ、そこに確固たるものとして存在させることだ。これら無数の性的欲望を、分散させつつ、現実の 中に撒き散らし、個人の内部に組み込むことなのである」(p56)

(三)性的欲望を狩りだす権力は、その狩りだす行為によって快楽を得、駆られる性的欲望は駆り出されることに快楽を見出す。「権力と快楽の無限に繰り返される螺旋を張り巡らしたのである」(p58)

(四)近代において正当な性行為の単位としての夫婦を中心とした「家族」とは、〈権力である快楽〉の網の目、性的飽和の装置であり、性的欲望は禁止されるのではなく煽動され多様化され、いつどこでも析出するようになっている(つまり、飽和状態から析出される)。

 

「快楽と権力は互いに互いを否定しない。両者は相反目することがないのだ」「両者は、煽情と教唆の複雑で積極的なメカニズムに従って連鎖を構成するのである」(p62)

近代の権力が性を抑圧したのではなく、「法とは非常に異なる装置が、連鎖的なメカニズムの網の目によって、特殊な快楽の増殖と変種的な性的欲望の多様化を保証しているのだ」(p63)