フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第5章 ロマンスと物象―ジョセフ・コンラッドにおけるプロット構成とイデオロギー的閉止=完結性

 

ジョゼフ・コンラッドの作品に複数のイデオロギーの混交を見る。「その文学は、高度な純文学から娯楽文学、ないしはロマンスへとこぼれ出しながらも、気晴らしや娯楽の大いなる領域の復権を、もっとも過酷な文体またエクリチュールの実践によって求める」(372)。そこから「二十世紀の文学と文化のさまざま な《制度》の構造が、私たちの目にはっきりと映じてくる。」

 

コンラッドのさまざまな側面

 

1.「ロマンス」あるいは「大衆文学的」作家としての側面。20世紀の大衆文学を準備する。たとえば冒険物語、海洋小説の要素など。ただしこれに関しては後から触れられる。

 

2.「モダニズム」ないし「印象主義的」作家としての側面。「海」をめぐるモダニズム的な、印象主義的なエクリチュール。

  「彼の持ち場はフォアトップにあった。その持ち場から、危難のただなかで光り輝く運命にある者が当然抱く軽蔑心を胸に、彼はよく、眼下に群がる平穏な 屋並みをみおろすのだった。褐色の一筋の川が、その屋並みを二つに割って流れていた。また、周りを囲む平原のはずれあちこちには、鉛筆のようにほそりとみえる工場の煙突が、煤けた空を背に直立し、火山のような煙を吐き出していた」(378、コンラッドのテクストの再引用)

「この世界に対するジムの外在性、彼がこの世界に対して保っている絶対的な構造的距離は、私たちがのちに立ち返って検討するプロセス、つまり、このような現実を印象へと変容しようとする、コンラッド自身の文体の衝動にもみあうものである。」(378)

しかし同時に「海」は労働の場でもある。「まさしくこの海という自然の要素によって、帝国資本主義は・・・前資本主義的段階の辺境の地への浸透を漸次実現してゆくのである」(384)

コンラッドのテクストは「現実のいっさいを文体へと変容させるプロセス、私たちがモダニズムの印象主義と呼ぶものによる作業であるが、その機能は、描写対象の内容を非現実化し、それを純粋に審美的なレベルで消費しうる一個の商品と化す」

  「眠りについているひとかたまりの者たちのうえに、ときおり、不安な夢の吐息ともいうべきかすかな辛抱強い溜め息が漂った。また、船の深奥部からは、 短い金属音が、突然破裂するように響いてくる。下のほうでなにか神秘的なものを扱っている者たちの胸が、まるで獰猛な怒りに満たされているかのように、 シャベルをこする耳障りな音、炉の蓋を閉める乱暴な音が、荒々しく爆発するのだった。・・・」

 

一方でモダニズムのテクストは「現実」を「保存=包摂」するが、それは同時に一個の商品として「容易に無視しうるものにされ」てもいる。(一種の「美学イデオロギー」?)

 

生産の現実はまた別の仕方で「処理」を受ける。それは第一に「その労働過程のいっぽうの極をなす人間の極を、前章でその概略を示した、《ルサンチマン》の イデオロギー的神話のすべてを用いてコード化しなおす」(388)ことである。つまり《ルサンチマン》によって関係づけられた人間たちの相克=ロマンスと して「再包摂」(いったん「海」によって包摂された物語が再度「海」を包摂する)し、「善と悪のサブシステムによって再構成」してゆく。そして現実は「勇気と怯懦についての道徳物語、もしくは、実存的英雄を生み出すことの困難さを示す教訓」となる。つまり、先述の第二の《ルサンチマン》がここでも発生す る。

 

しかし、このような二つの側面によってもたらされる「表向き」のテーマを「異化」することにこそ批評家の仕事がある。

「私たちはその文体のモダニズムを、より全体化的傾向の強いリアリズムの抑圧と捉え、物語全体としては、そのようなリアリズム的傾向を表現すると同時に、 再包摂ないし処理していると理解すべきなのだろうか」を問うこと。あるいは「「パトナ号」のエピソードの高級文化的あるいはテクスト的な言説から、まった く性質の異なる、堕落したロマンスの大衆文化的な言説が誕生する瞬間を記録すべき」なのか。これが問われる。

 

3.「ポスト・モダニズム」あるいは「分裂症的」作家としての側面。

ヘンリー・ジェイムズやフローベールに代表されるモダニズム的な「視点」の設定をめぐる問題。「ジェイムズによる「視点」の創出・・・が完全に歴史的な行為であったことは明らか」である。大衆社会の出現によって「主体がテクスト対象を社会的展開の論理により引き裂いてしまった結果、テクストは、それ自身の内部に主体の地位を保持するような形式で構成されなければならなく」なったのである。大衆社会に対しての一種の「反動」としてのテクスト上の「主体=視点」の設定。これもまた十九世紀後半における《物象化》という現実の「包摂」であった。

 

これに対し、コンラッドはより不安定な視点を採用している。「このエクリチュールは、その物語の現前へと、その逸話の中心へと接近してゆきながらも、同時にそのような現前の可能性を否定し、さらなる文章生産のなかへ、肯定されつつ否定される現前の、さらなる不足感のなかへ私たちを投げ出してゆく」 (401)。だが、これは後に見るように「実存主義的」営みでもある。というのも「物語の充溢、物語の現前を追い求めることは、本質的に、行為の統一性を求めること、ないしはその統一性を疑うといういとなみと、なんら変わることがない」ため。

 

コンラッドの《審美的》文体の両義性

文体は現実を変容させ、組み替えるイデオロギー的機能を持つ。モダニズム的側面の読み替え。「モダニズムを、物象化がもたらしたあらゆる現象に対する、ひとつのユートピア的な代償として読む」(426)。

  「沈む陽は、その直径までもが縮んでしまったかにみえ、いまにも消え入らんばかりの、褐色の生気のない輝きを放っていた。それはあたかも、その日一日のうちに何百万の世紀が流れ、太陽もついにその臨終をむかえているといった光景であった。北方には、ぶ厚い土手のような雲が姿をあらわした・それは不吉な暗いオリーブ色を帯び、船の行く手を阻む堅固な障壁のごとく、海上低く、身動きひとつせずに進んでゆくのだった。」(416)

これは「科学が数量的な観念のみを扱う」資本主義的世界に対する「未使用の感覚知覚」による抵抗をしめしている。これを「イデオロギーと同時にユートピア として捉えたとき、コンラッドの文体実践のもつ意味を、私たちはひとつの象徴行為としてはじめて十全に捕捉することができる」(428)。

 

コンラッドの物語の両義性

『ロード・ジム』に於けるスタインの「静謐な憂い」は「歴史から除外された人生」という鋭い痛みを隠し、資本主義的な変化の物語に対する抵抗を示してもい る。このように「文学の「登場人物」とはラカンにおける自我と同じく非実体的なものであり、自立した表象対象というよりも、ひとつの「体系の効果」とみなすべき」(440)である。しかし、同時に「物語の道具もしくは口実にすぎない要素が、それ自体で自立した実質的な意味をにない、テクスト構成上欠かせない要素と」(447)なることもある。この場合登場する人物は「置き換え不能」の存在となる。たとえば『ロード・ジム』におけるメッカに向かう巡礼たち。 この二つの側面は「重層決定」されており、簡単に割り切れるものではない。

 

例えば「置き換え不能のもの」として「宗教」をあげることができる。宗教は十九世紀後半、多くの論者によって問題とされてきたが、「今私たちの関心を引く のは、そのような探究の前提条件、つまり、このような「問題」をひとつの問題として明確に設定することをそもそも可能にした、客観的な歴史的展開」 (451)である。つまり「資本主義における生活の世俗化」など。

 一般に「価値」とはそれが失われつつあるときに強く意識されるものである。ここでも「不信人者の憂鬱、あるいは、手の届かないものとなった信仰の「全体性」に対して、十九世紀の知識人たちがいだいた郷愁といった心情は、現実には集団的システムと社会形態との関係に他ならない問題を、個人存在の問題へと変 換するために編み出された、一種のイデオロギー的な寓話にすぎない」(457)のである。つまり、「現在」の人間が過去に対して抱く「幻想」である。

 

小説には近代社会の反映である「活動」と古い共同体信仰と結びついた「価値」とが両方書き込まれている。これが「論理的な矛盾というより、精神の二律背反、ジレンマ、アポリアというべきものであって、それ自体が-イデオロギー的閉止=完結というかたちで、具体的な社会矛盾を表現しているのである。」 (460)ただし、コンラッドの場合には両者はかならずしも両立不可能ではない。

 

小説の登場人物たちはこの「活動」「価値」およびその対照である「非活動」「非価値」の組み合わせによって、規定される。「価値」と「活動」の一体化である「複合項」(=ジム)によって、現実には両立することのない「西欧資本主義のエネルギーと、前資本主義社会の宗教が有する有機的な内在性との統一」が図られるが、これは(バルザック的な)願望充足としてのロマンスを体現することになる。

(464ページ上段の図参照。)

ただし上記分析は登場人物の性格付けに関するものであり、個々の出来事に関しては別の分析が必要である。「出来事」の分析にあたって『ロード・ジム』にみいだされるのは、その「実存主義的」あり方である。もしくは「『ロード・ジム』の「出来事」とは、出来事の分析・解体」に他ならない。

『ロード・ジム』にみられる「行為そのものが突然大きく口を開」く場面、「主体の一時的な消失」、それは「行為とは、また時間的一瞬とは、本来どういうものなのか、行為が起こるときとはいったいいつのことなのか」などについての疑問として理解できる。

  「一段高い固い地面が、彼[ロード・ジム]の目の前六フィートくらいのところにあった・・・。彼は手を伸ばし、必死につかみかかったが、結果はただ、 身の毛もよだつような、冷たく光る泥をかき集めただけだった。・・・・彼の話では、このとき急に、まるではるか昔幸せに暮らしていた思い出の場所を懐かしむかのように、例の中庭が思い浮かんだという。そこに戻って――と彼はいった――時計を直していたいと思った。・・・彼は必死の努力を続けた。・・・これ以上は不可能という渾身の力をこめると――精根尽きながらも、どうにか土手に這い上がっているのに気づいた。・・・」(468)

こうした問いは、じつは個人的=実存主義的なものであると同時に「社会制度・・・およびその正当化の構造が、この破壊的な発見あるいは非社会的個人というスキャンダルといかなる関係を結ぶか」(480)という問題でもある。(本来は「主体的に」行動することが期待されている)支配階級の人物に見られる無気力、自殺は「一種の階級放棄」としての側面がある。

 

最後に考察されるのは「受容」の問題について。すなわちなぜ、いままでこのような読解がなされてこなかったか。「そのような内容を構造的にずらす可能性を保証し、テクストをより無難なかたちに書き換えようと読者が望む場合・・・そのための代替的な解釈システムを、テクスト内部に準備しているメカニズム」 (484)を解明しなくてはならない。

 二つの戦略が存在するが、いずれも「物語を書き換えることにより、その力学を倫理的なもの、あるいは個人主体のカテゴリーに押しとどめることを」目的とする。

 第一に形而上学的戦略、第二にメロドラマ的戦略である。前者は『ロード・ジム』において前半部を構成する「海」のもつ「実存的な」恐怖によって、後者は悪意ある紳士ブラウンとの対決によって示される。悪意は《ルサンチマン》の理論によって、敵対者のなかに見出される。

 

『ノストローモ』における不可能な《歴史》

 『ノストローモ』はさまざまな仕方で容易な「包摂」をこばむ。文体的には「不安定な視点」、物語的には「出来事の中心の不在」によって認識・行為主体は拒否され、「集団的なもの」のレベルに引き上げられる。

物語の中心的な二人の登場人物はそれぞれ産業資本主義(デクー=ホルロイド)と「民衆的」革命(ノストローモ=ガリバルディ)に対応する。こうしてふたたび登場人物をめぐる意味素のひし形を作ることができる。

(505ページ上段の図参照)

『ノストローモ』においても『ロード・ジム』同様、本来は不可能なイデオロギー的問題の「解決」を図るような(堕落した)人物造形が見られる。しかし、 『ノストローモ』は、この非可能性を裏切ることなく、真の歴史的変革に向かおうとする行為[理想と自我の結合]がはらむあらゆる問題性を最後まで力説し続 ける」(506)のである。つまり「不可能性」としての《歴史》に向きあうことである。

(グールド夫人を悩ませるアポリアは「物質的関心」という語の持つ通約不可能性である。それは一方で「現世=物質」的な欲望を主張しつつ、他方で抽象的な価値を主張する。この矛盾はしかし、資本主義特有のものである。)

 

ほんらい「歴史」のおこる瞬間、つまりある社会体制から別の社会体制への「移行」は記述不可能なものである。それはつねに「すでに-開始されていた」 (510)というかたちでしか記すことが出来ず、「起原」は忘却にさらされる。『ノストローモ』の特異性はこの「不可能性」としての《歴史》そのものが形式のなかに刻印されている点にある。だが、こうしたコンラッドの異種混交性は盛期モダニズムの詩的装置によって「抑圧」されることとなる。このとき「抑圧」された政治的なものはついに「無意識」となる。