カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第4章 歴史の声

救済は本質的に非歴史的なものである。歴史を参照することは、時間的なもののなかに超時間的なものが存在することを認識するためである。「歴史そのものが復活を、所与そのものがその非=所与的前提を、人間的出来事そのものが、その手放すことのできない基礎としての信仰の逆説を証明する」(111ページ)

アブラハム、ダビデの事跡が語られる。

「上方からの光に照らされると個別的なものの分離性、個人的なものの偶然性が消失する。」(132ページ)

アブラハムは「ここからそちらへの移行、展開、上昇、いやそれどころかここからそちらへの建設は根本的にありえない。なぜならこのような運動をこちら側で始めることは「むこう」からすれば死と非存在を意味しうるだけである。そしてそのような運動をむこうで終えることはこちらから見れば死であり非存在であるに他ならない。この二つの純粋に否定的な可能性のあいだにはあくまでもただ「マイナスかけるマイナスはプラスである」という不可能性だけが存在しつづけ る」(133ページ)ことを示している。

*信仰が「不可能性」としてしか現れないが故に、それは非歴史的である。

それはある人物(この場合アブラハム)の「神の前での信仰」であるので、歴史的出来事としての側面をもつ。同時にそれはわれわれにもかかわりを持つ。「過去は現在に語りかけうる。」(136ページ)こうしたことに意識を向けさせるのが「歴史の効用」である。

 

第5章 夜明け

新しい人間の到来を告げる。この新しい人は「現にあるところのものだけではなくて、信仰によって、われわれが現にないところのものである。」(140ペー ジ)したがって、この新しい人の到来は「不可能」であるが、それゆえに「いつも、いたるところで、一貫して証しされ」ている。

*「新しい人間」は犠牲的に死を選ぶ人間ではない。なぜならその場合自己の犠牲が他者の「生」に結びついているからである。

新しい人間=キリストとしての人間は古い人間=アダムとしての人間と両立しない。「というのは、つねに前者の可能性は後者の不可能性であり、前者の不可能性は後者の可能性だからである。」(157ページ)

「「第一の」世界の視点から見れば、「第二の」世界は第二の世界であることをやめ、「第二の」世界の視点においては、「第一の」世界はもはや第一の世界ではない。」(157ページ)

二つの世界は互いに否定しあう。

しかし両者は対等の関係にあるわけではなく、「第二の世界」から「第一の世界」への移行こそが真の運動である。

*この移行は「瞬間」としてのみ現れる。「この瞬間の意味が、想定されたものでしかない人間の一元性の中にある二元性を明らかにすることによって、対立する二つのものの分離を来たらせるだけでなく、分離とともに決=断をももたらす。」(158ページ)

「この二元論は自分自身を廃棄することによって成立する。」(168ページ)

 

二つの法秩序

アダムの世界における人間は、アダムから列なる連鎖によって拘束されている。これは「人間は、人間世界を特徴づけるまさにあの死の運命を全体(因果律)と して意味する不可視的前後関係によって規定されている」(170ページ)のであり、「物理的・心理的運命、機械的必然性は人間を無意味な生成と消滅、根拠のない確信と支持のない絶望、怪しい青春と明白な老衰、楽観的短絡推理と悲観的短絡推理の輪のなかに閉じ込める」(同)。

*生成も消滅も先後関係に規定された単なる偶然的な運動である。ここに「自由」はない。

キリストの世界=神の法秩序においては「死において可視的となった不可視的な罪というこの世の律法に対する革命、人間の復権、あらゆるものを拘束する力からの根本的解放」(171)が現れる。そこでは人間は「自由の律法」のもとにある。

 

ただし、それはあくまで人間が「死」にとらわれていることを前提とする。つまり、「古い世界が、まったく完全に、まったくすきもなく自己閉鎖的な円であ り、そこからの脱出は不可能であることにおいて、われわれは・・・近づきつつある日、すなわち、新しい人と新しい世界の日の意義と力を認める」(178 ページ)のである。