フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』岩波文庫(旧版)

(文庫版の第1~5、第6~10、第11~15、第16~20、第21~25節の5部に区分けして解説する)

第1部(第1~5節):ディオニュソス的芸術とアポロ的芸術

「芸術の発展というものは、アポロ的なものとディオニュソス的なものという二重性に結びついている」(p29)

「造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソスの芸術」(p29)

→初めの対立項:アポロ的/ディオニュソス的

アポロ的夢の芸術とは・・・・「夢の世界の美しい仮象」(p31)であり、また「この現実世界もまた一種の仮象なのだ」(p31)

→ショーペンハウアー的世界観……プラトンのイデア論から、カントの「物自体」と「現象」の区分を援用し、世界の根源を「意志」という概念を超越したものとし、それの表象として現実世界を捉える。表象としての世界は世界の根源にある意志が理念(イデア)を経て個体化されたものであり、芸術とは個体を離れた 理念の発現であるとした。

ディオニュソス的陶酔の芸術とは……「個体化の原理が敗れると、人間の、否、自然の、最も内面の根底から、歓喜あふれる恍惚感がわきあがるものだが、(略)この歓喜あふれる恍惚を加えるとき、われわれはディオニュソス的なものの本質に一瞥を投ずることになる」(p34)

しかし、アポロ的なものもディオニュソス的なものも両方が「人間の芸術家の媒介をへないで、自然そのものからほとばしり出る芸術家的な力」(p37)である。であるが、さらに「アポロにしても、そのメドゥーサの頭をさしむける敵のなかで、この醜悪奇形なディオニュソスの威力以上に危険な敵はなかった」 (p39)「世界に驚愕と戦慄をまき起こしたのは、ディオニュソス的音楽だった」(pp40-41)「自分たちのアポロ的意識はただヴェールのようにこの ディオニュソス的世界を蔽いかくしているにすぎない」(p42)

ギリシア文化には「禁欲・精神性・義務を思い出させるものは、なにひとつない」「勝ち誇った生存」(pp43―44)→その後のニーチェ思想の萌芽が見られる

「「意志」は、アポロ的段階ではこのようにはげしく生に執着する」(p46)

「芸術において「素朴なもの」に出会った場合、われわれはそこにアポロ的文化の最高の作用を認めなければならない」「ホメロス的「素朴性」は、アポロ的幻想の完全な勝利としてのみ理解されうる」(p47)

「美の世界にこのような神々を映し出すことによって、ギリシア的「意志」は、芸術的才能と切っても切れない相関関係にある才能、すなわち苦悩する才能と苦 悩の知恵の才能に対して戦ったのである」「このギリシア的「意志」の勝利の記念碑として、われわれの前に立っているのが、ホメロスという素朴芸術家にほかならぬのである」(p48)

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象を必要とする」(p50)→ショーペンハウアー的、概念を拒絶する世界の根源的一者とその仮象としての現実世界

「夢は今や仮象の仮象と認められざるをえず」(p50)→夢は仮象(である現実)のさらなる仮象である

「倫理的な神としてのアポロがその信奉者たちに要求するのは節度であり、またそれを守ることができるように自己認識を求める」(pp52-53)しかし、 「あらゆる美と節度をそなえた彼の全存在が、苦悩と認識の覆われた基盤の上に立っている」「アポロはディオニュソスなしには生きることができなかったのだ!」(p53)

芸術(家)において「主観的」「客観的」という区分は意味はなく、まず求められるのは「主観的なものの克服・「自我」からの解放・すべての個人的な意志や情欲の沈黙であり、それどころか、客観性なしには、純粋で利害を離れた直観なしには、われわれはとうてい真に芸術的な制作など信じることができない」 (p57)

芸術(家)は古代においては「抒情詩人と音楽家が結びついていたということ、いな、同一人物であった」(p58)

「抒情詩人はまず、ディオニュソス的芸術家として、まったく根源的一者と一体になり、根源的一者の苦痛・矛盾と完全に一つになっている」そして「この根源的一者の模像を音楽として生み出すのである」「ところがこんどはこの音楽が、比喩的な夢の影像の場合と同様に、アポロ的な夢の作用でふたたび彼の目に見え るようになってくる」(p58)

→根源的一者の模像としての音楽こそが、仮象による根源的苦痛の救済であり、この音楽によって示される形象は根源的矛盾と苦痛を感性化し可視化する夢の舞台である

「抒情詩人の「私」は存在の深淵からひびいてくるのである」「抒情詩人の「主観性」などというのは、ひとつの空想にすぎない」(p59)

「抒情詩が最高の展開を遂げる時、悲劇と呼ばれ、演劇的酒神賛歌(ディテュランボス)と名づけられる」(p59)

ここでまたアポロ的=彫刻家=叙事詩人とディオニュソス的=音楽家=抒情詩人が区別される。

アポロ的叙事詩人……姿かたちを純粋に見ることに没頭する。描写するものを眺めるのに没頭するが、描写するものと一体化することはない。

ディオニュソス的抒情詩人……象徴的比喩的世界を感じる。抒情詩人の形象は彼自身にほかならない。しかし、この自我は世界の根源的な自我である。

ショーペンハウアー的芸術・世界観を経て、「芸術世界の真の創造主にとっては、われわれがすでに形象であり、芸術的投影であるということ、われわれはこの創造主の創り給うた芸術品であるという意味において、われわれの最高の尊厳を持つということだ――なぜなら、美的現象としてだけ、生存と世界は永遠に是認 されているからである」(p63)

→プロティノス的、新プラトン主義的芸術・世界観

 

第2部(第6~10節):音楽と悲劇

音楽の言葉や比喩や概念に対する優位性→「音楽は意志として現象する」(p69)

「音楽というものは、根源的一者の胸のうちにある根源の矛盾と苦痛を象徴的にあらわしているものなのであり、従って、いっさいの現象を越え、いっさいの現 象以前に存在する領域を象徴するものだからだ。音楽とつきあわせてみれば、むしろどんな現象も比喩にすぎない。」(p70)

「悲劇が悲劇の合唱団から発生した」(p71)

「真の悲劇は究極的にはわれわれに形而上学的慰めをもたらす」「この慰めが具体的明瞭さで現象したものが、サチュロス合唱団にほかならない」「永遠に変わらないものとして同一である自然的生きものから構成されている合唱団」(p77)

ディオニュソス的世界認識において、「人間はあらゆる所に存在の恐怖あるいは不条理しか見ない」(p78)「この時、意志のこの最大の危機にのぞんで、これを救い、治癒する魔法使いとして近づくのが芸術である」(p79)

サチュロスこそが文明・文化に冒されていない人間の原像である。そしてディオニュソス的熱狂に基づく悲劇合唱団において、踊り歌うサチュロスと観衆は一体のものとなる。「合唱団は、悲劇発生期のその原始的段階では、ディオニュソス的人間の自己反映であった」(p83)

「われわれはギリシア悲劇を、たえず新たにアポロ的形象世界において爆発するディオニュソス的合唱として理解しなければならない」(pp85-86)

「唯一の「現実」はほかならぬ合唱団である」(p87)だが、このディオニュソス的現実はそのままでは人間は感得しえない。そこで始められるのが「劇」である。そこにおいてディオニュソスがアポロ的に客観化される。

「ディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬ」(p93)「この巨人的芸術家は自分の胸のうちに、人間を創造し、そしてすくなくともオリュンポスの神々を滅ぼすことができるという反抗的な信念を見出していた」(p95)「巨人的努力を重ねる個人は冒瀆を犯す必然性を負うている」(p98)→後のニーチェ思想の萌芽。アポロ的節度に対するディオニュソス的反抗。

「悲劇の秘教」「すなわち、すべて現存するものは一つであるという根本認識、個体化を禍の根源と見る見方、芸術は個体化の呪縛を破りうるというよろこばしい希望であり、合一が復活されるという予感」(p102)

ホメロス的神話は自然の女神の目におびえ、やがてディオニュソス的真理によって神話の全てが現れる。この真理の力は「音楽のもつヘラクレスのような力だったのだ」(p103)そして「神話がその最も深い内容、その最も表現にとんだ形式に行きついたのは、悲劇によってであった」(p104)

しかし、やがて悲劇はエウリピデスにおいてディオニュソスと同時にアポロンをも捨てることになる。

 

第3部(第11~15節):悲劇の死とソクラテス的楽天主義

悲劇を殺した者であるエウリピデスが従った二人の観客…一人は「思想家としてのエウリピデスだ」(p113)

そしてもう一人が「ソクラテスと呼ばれる、まったく新たに生まれた魔神(ダイモン)だったのだ。ディオニュソス的とソクラテス的、これが新しい対立である。そしてギリシア悲劇という芸術作品はこの対立のために滅んだのである」(p117)

「アポロ的直観にかわるものとしての冷たい逆説的な思想と、ディオニュソス的恍惚にかわるものとしての火のような激情」が、模写はされるが、芸術ではないものとしてエウリピデスの劇に現れる。

そして「美的ソクラテス主義」(p120)が無意識的なあるべき芸術の創作からかけ離れた「意識的な」原理として悲劇を死に至らしめる。そして「ソクラテスにおいては、本能が批判者となり、意識が創造者となっている」(p128)

「哲学的思想が芸術を押しのけてはびこり、芸術はいやでも弁証法の幹にしっかりしがみつかざるをえなくなる」「弁証法の本質に、楽天主義的要素がひそんでいる」(p134)「楽天主義的弁証法はその三段論法の鞭をふるって、音楽を悲劇から追い出す」(p136)

「この限界において科学は芸術に転ぜざるをえないのである。もともと、芸術こそ以上のからくりのめざすところであったのである」(p142)「神話こそ、(略)科学の必然的帰結、いや、科学の意図にほかならなかったのである」(p143)

→ソクラテス的科学と芸術あるいは神話の弁証法的関係

しかし、この「理論的楽天主義」(p144)は限界に突き当たり、そこで「どうしても芸術を必要とする」(p145)が、その欲望は「ディオニュソス的・悲劇的芸術を内心では嫌悪せざるをえない」(p146)

 

第4部(第16~20節):現代における音楽と悲劇の再生に向けて

「悲劇の再生」(p148)―音楽の再生―絶対音楽の理念「音楽というものは、あらゆる造形芸術とはまったく違った美学的原理で測られるべきものであり、 およそ美の範疇で測られるべきものではない」(p149)(→cf.ハンスリック「音楽美論」の「音楽とは鳴り響きつつ動く形式である」という形式的音楽観)―ショーペンハウアーの音楽美学―「音楽は、(略)それは意志そのものの模写であること」(p151)「音楽を意志のことばとして直接に理解する」 (p153)

「音楽の精髄からはじめて、われわれは個体破壊の歓喜というものを理解できるのである。」(p154)「この芸術は、個体化の原理のいわば背後にあって全能の力をふるっている意志を表現するものであり、いっさいの現象の彼方に、いっさいの破滅にもかかわらず生きている永遠の生命を表現する」(p155) 「「われわれは永遠の生命を信じる」」(p155)

現象の背後にある生存の永遠の快感―「恐怖と同情にとらわれながらも、われわれは幸福に生きる存在である。ただし個体としてではない。万物を生み出すその生殖の快感とわれわれが融けあってしまった一つの生き生きとした存在者として」(pp156-157)

「理論的世界観と悲劇的世界観が永遠に戦うものである」「科学の精神がその限界まで導かれ、その普遍妥当性に対する要求が、あのさまざまな限界を指摘されることによって通らなくなった時はじめて、悲劇の再生は期待できることになろう」(p159)

しかし、「「ギリシア的明朗」のあの別の形であるアレクサンドリア的明朗のもっとも高貴な形式は、理論的人間の明朗さである」「すなわち、それはディオニュソス的知恵と芸術を攻撃し、神話を解体しようと努める」(p164)

アレクサンドリア文化―ソクラテス的楽天主義、普遍主義、無矛盾性、科学性に対して、「あの楽天主義に対する勝利、この困難きわまる勝利がえられたのは、カントとショーペンハウアーの非凡な勇気と知恵のおかげなのである」(p168)

「科学の原理の上に築かれている文化が非論理的になりはじめるとき、つまり当然そこへおちつくという帰結をおそれて逃げ始めるとき、その文化は滅びるにきまっている」(p171)

「オペラのなかでたいへん素朴にお気に入りの観念を言いあらわしているのはアレクサンドリア的明朗さであり、いやそれどころか、その本来の芸術形式がオペラだからである。だが、そのもともとの起源は美的領域になく、半ば道徳的な領域から芸術的領域に忍び込んで」(p179)「音楽は現象の奴隷になって、現象の形式的特徴を模倣し、線や釣り合いの遊戯で外面的感興をそそる以外に、手はなかったのである」(p180)

「現代の世界に徐々にではあるがディオニュソス的精神がめざめつつある」「つまりドイツ音楽、とりわけバッハからベートーベンへ、ベートーベンからワーグ ナーへの太陽のあゆみ」(p181)「ドイツ音楽こそ、あらゆるわれわれの文化のただ中で、唯一に純粋清浄な、しかも浄化するはたらきをもった火の精霊だ からだ」(p182)→ドイツ・ナショナリズム

 

第5部(第21~25節):ワーグナーとドイツ音楽の復活

悲劇が音楽を完成し、悲劇の主人公はディオニュソス的世界の重荷から人間を解放する。また、悲劇は悲劇は生存への貪欲な衝動から人間を救済する。神話は人間を音楽から守ると同時に、音楽に最高の自由を与え、音楽は悲劇的神話に形而上学的意味を与える(pp193-194)。神話や主人公は音楽だけが直接に語りうる(p196)。

一方この悲劇と音楽のディオニュソス的普遍性と個別性の破壊に対して、個体を保護するのがアポロ的なものである(p197)。

悲劇においてアポロ的な幻惑が音楽のディオニュソス的根源的要素に完全な勝利をおさめている一方、本質的な意味でディオニュソス的なものはアポロ的芸術の彼岸にある作用を達成している。根源的なディオニュソス的なものをくるむものがアポロ的なものである(pp200-201)。「悲劇的神話は、ただ、アポロ的芸術手段によるディオニュソス的知恵の具象化として理解されなければならない」(p203)。ディオニュソス的衝動は世界を破滅させることによって根源的一者との一体化を感じさせる(p204)

「国家でさえも、神話的基礎以上に強力な不文律を知らない。神話的基礎こそ、国家が宗教と関連を持つこと、国家が神話的表象の中から成長してきたことを裏づけるものなのだ」(p210)。「ドイツ神話の再生」(p212)。「ある民族のディオニュソス的能力を正しく評価するには、その民族の音楽を考えるば かりでなく、(略)、その民族の悲劇的神話を考えなければならない」(p221)→ドイツ・ナショナリズムとワーグナーにおける神話的題材

「悲劇的神話が生み出す快感は、音楽における不協和音の快感と同じ故郷を持っている。苦痛に対してさえ根源的な快感をおぼえるディオニュソス的なものが、 音楽と悲劇的神話の共通の母体なのだ」(p220)「われわれが生きてゆくに当っては、いっさいの存在のあの基礎、すなわち世界のディオニュソス的基底が人間個体の意識にのぼるといっても、それはあのアポロ的浄化の力によってふたたび克服される範囲にかぎられている」