カント『プロレゴメナ』[1783](篠田英雄訳:岩波文庫、1977年)65~161頁

先験的主要問題

1.純粋数学はどうして可能か

第七節

・数学的認識と哲学の違い

数学的認識:まず直観において、それもア・プリオリな直観において、従ってまた経験的な直観においてではなく純粋直観において現示せねばならない。

哲学:単なる概念にもとづく論証的判断をもって満足せねばならないし、またその確然的命題を確かに直観によって説明することはできるが、しかし直観から導来することはできない。

「数学はその一切の概念を純粋直観において具体的に、しかもア・プリオリに現示し得る―或いはよく言われるように、概念を構成し得るものである」(p66)

 純粋直観:ア・プリオリな直観としてすべての経験に先立って―すなわち個々の知覚に先立って、概念と不可分離的に結びついている。

 

第八節

問題「何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か」。(p68)

 

第九節

・ア・プリオリな直観の発生

「私は現実的な印象を通じて対象から触発されるが、しかし私の直観は私の主観において

かかる現実的印象に先立つところの感性的形式しか含んでいない」(p69)

「ア・プリオリに可能な直観は、我々の感官の対象以外の物[例えば、物自体]には関係しえないということである」

 

第十節

空間および時間:①経験的直観の根底にア・プリオリに存する純粋直観

②我々の感性の単なる形式

③現実的な対象の知覚に先立たたねばならない

 

第十一節

「純粋数学がア・プリオリな総合的認識として可能なのは、この学が感官の対象以外のいかなる対象にも関係しないからである。感官の対象の経験的直観の根底には(空間および時間という)純粋直観が、実にア・プリオリに存する、そしてこの経験的直観の根底に純粋直観が存し得るのは、純粋直観が感性の単なる形式にほかならないからである、つまり純粋直観は、対象の現実的現象を何よりもまず実際に可能ならしめることによって、この現実的現象に先立つのである」(p71)

疑問点:自発的=ア・プリオリ?

 

第十二節

以上のことの解明と確認のために、幾何学を例にとって説明している。

注一、二、三

ここでカントは、自身の理性批判と観念論との相違について述べている。

2.純粋自然科学はどうして可能か

 

第十四節

自然:物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在。(p91)

自然≠物自体の現実的存在

物自体はア・プリオリにもア・ポステリオリにも認識はできない。

 

第十五節

問題「純粋自然科学はどうして可能か」。

 

第十六節

「自然という語は、(中略)まだ他に客観[対象]を規定するという意味を持っている。そこで質料的に考察された自然は経験の一切の対象の包括ということになる。そして我々が考察せねばならない自然は、この意味における自然だけである」(p94)

 

第十七節

第一の設問:「経験の対象としての物の必然的合法則性をア・プリオリに認識することはどうして可能か」(p96)←こちらを採用するほうが適切。

 

第十八節

・経験判断(Erfahrungsurteil)⊂ 経験的判断(Empirisches Urteil)(p98)

経験判断=感性的直観+カテゴリー(起源はまったくア・プリオリの純粋悟性のうちにある)

    → 客観的に妥当するもの 

知覚判断=単に主観的にのみ妥当する経験的判断

 

第十九節

「客観的妥当性と必然的普遍妥当性(すべての人に例外なく妥当する)とは、交換概念である。」(p100)

 

第二十節

判断作用の段階

知覚と知覚とを引き合わせて、これらの知覚を私の状態の一つの意識において結合するだけである=知覚判断(p103)

これらの知覚を意識一般において結合する。

「与えられた直観は、この直観に関する判断一般の形式を規定する概念のもと に包摂されねばならない、するとこの概念は、与えられた直観の経験的意識を意識一般において必然的に連結し、こうして経験的判断に普遍妥当性を与えるので ある。このような概念がすなわちア・プリオリな純粋悟性概念である」(p104)

・綜合的判断を分析してみて知ったこと

「ただ知覚と知覚とを引合わせてこれらの知覚を一個の判断において連結する というのではなくて、直観から抽象されて生じた概念を超えて、更に純粋悟性概念がこれに付け加わり、さきの概念はこの純粋悟性概念のもとに包摂され、こう して初めて客観的に妥当する判断において必然的に連結されるのでなければ不可能であろう」(p106)

 

第二十一節

Ⅰ判断の論理的表(p100~101)

Ⅱ悟性概念の先験的表

Ⅲ自然科学の普遍的諸原則の純粋自然学的表

 一 直観の公理

 二 知覚の先取的認識

 三 経験の類推

 四 経験的思惟一般の公準

・カテゴリー=直観を綜合的に統一する概念

 

第二十二節

思惟作用=判断作用、換言すれば表象を判断作用一般に関係させること

 

第二十三節

「純粋悟性概念がすなわち可能的経験のア・プリオリな原則ということになる。」(p114~115)

「ところで可能的経験を成立せしめる諸原則は、同時にまた自然の普遍的法則である。そしてこれらの法則はア・プリオリに認識せられ得る」

→「純粋自然科学はどうして可能か」という問題は解決された。第二十一節で示した形式的条件以上のいかなる条件ももはやあり得ないからである。

 

第二十四節

一は、数学を経験に適用するための原理、二は数学を自然科学に適用するための原則である。

 

第二十五節

三および四が、すなわち力学的と名付けられ得る本来の自然法則である

 

第二十六節

カテゴリーに関する注意書き。

 

第二十七節

ここまできてようやくヒュームの疑問を根本的に解決する段取りとなった。さて、ヒュームによれば、原因の可能性はとうてい理性の洞察し得るところでないのである。

 

【課題】ヒュームの因果論とはどういうものか?

   ・観念連合の諸法則:類似による観念の連合、時間的・空間的隣接による連合、原因と結果の連合

   ・因果性の原理:原因は観念連合のうちに求められねばならない

不可分の絆、必然的結合があるとの感情を抱く。

必然的結合=習慣的結合(『ヒューム』第二章による)

 

第三十節

「純粋悟性概念が、経験の対象を捨てて物自体[ノウーメノン。可想的存在者]に関係しようとすれば、これらの悟性概念は全く意義をもたなくなる。」(p129)

つまり、純粋悟性概念や普遍的自然法則の使用を経験だけに限定すること(p130)が、ヒュームの問題に対するカントの解決法となる。

 

・結論

「およそア・プリオリな綜合的諸原則は、可能的経験を成立せしめる原理にほ かならない、ということである。しかしこれらの原則が関係し得るのは、決して物自体ではなくて、経験の対象としての現象だけである。それだから純粋数学に せよ、或いは純粋自然科学にせよ、単なる現象以上の何ものにも関係することはできない、ただ経験一般を可能ならしめるところのものか、さもなければこれら の原理から導来せられて、常になんらかの可能的経験において提示され得ねばならないところのものを提示するにとどまるのである」。(p131)

 

第三十一~三十四節

既存の哲学に対する批判と、カント自身の業績の意義を述べている。

 

第三十五節

「悟性の本務は思惟にある、だから悟性が思惟する代わりに空想に耽るとなると、これはとうてい恕し得ることではない」(p139)

「まず第一に悟性は基本的認識を整頓する、基本的認識は一切の経験に先立ってもともと悟性に具わっているが、しかし経験においてのみ適用されねばならない、ところが悟性は、次第にこの制限を無視するようになるのである」(p140)

【課題】悟性が空想し始めることを、積極的に評価できるのであろうか?想像力との関係は?

 

第三十六節 自然そのものはどうして可能か

・二つの問題(すでに解決済み)

第一に、「質料的意味における自然はどうして可能か、―空間および時間と、この両者を充たすところのもの、すなわち感覚の対象は一般にどうして可能か、という問題」(p142)

第二は、「形式的意味における自然―すなわち規則の総括としての自然はどうして可能か、という問題」

★悟性および一切の思惟の根底に存する必然的統覚(Apperzeption)については解答不可能である。

かくして、命題「自然に対する 最高の立法は、我々自身のうちに、すなわち我々の悟性のうちに存しなければならない、また我々は普遍的法則を、経験を介して自然から得るのではなくて、逆 に自然がその普遍的合法則性を、我々の感性と悟性とに存する条件―すなわち経験を可能ならしめる条件に求めねばならない」(p144)に達した。

「可能的経験の原理と自然を可能ならしめる法則とのかかる一致―しかもその 必然的な一致が生じ得るとすれば、それは二通りの理由によるほかはない、すなわち―これらの自然法則は、経験を介して自然から得られるのか、自然が経験一 般を可能ならしめるところの法則から導来され、経験の普遍的合法則性そのものとまったく同一であるか」(p145)

 →第二の理由だけが残る

「悟性はその(ア・プリオリな)法則を自然から得てくるのではなくて、却ってこれを自然に指示する」(p146)

 

第三十七節

「一見したところ頗る大胆なこの命題」(p147)→カントのコペルニクス的転回!

 

第三十八節

「それだからここに法則を根底とする自然があり、悟性はこれらの法則をア・ プリオリに、それもとりわけ空間を規定する普遍的原理にもとづいて認識するのである。(略)―これらの自然法則は空間のうちにあり、悟性は空間に含まれて いる豊富な意味をただ探求するだけでかかる法則を学べるのか、それとも自然法則が悟性のうちに、また悟性が綜合的統一の条件に従って空間を規定する仕方の うちにあるのか、と」

→ 悟性の本分は綜合的統一にある

「してみると悟性は、自然の普遍的秩序の根源である、そして悟性は、いっさ いの現象を自分自身の法則のもとに包括し、そうすることによって初めて経験を(その形式に関して)ア・プリオリに成立せしめる、こういうことがあるので、 およそ認識され得る限りの一切のものはすべて悟性の法則に必然的に従うことになるのである。要するに我々が問題としているのは、物自体の本性ではない」 (p150)

 

第三十九節 純粋自然科学への付録

アリストテレスのカテゴリー批判。

 

【参考文献等】

ドゥルーズ『ヒューム』(日本語訳はちくま文庫など)

伝記から著作の抜粋まで含まれているヒュームの簡潔な入門書。

カント『判断力批判』

序言と序論がカントの批判哲学の要約になっている。『プロレゴメナ』を読んだ後ならば読めると思う。

ドゥルーズ『カントの批判哲学』(日本語訳はちくま文庫など)

『判断力批判』を読んだ後に、カント哲学を独自な視点から再構成した教科書として参考になると思われる。