アンドレ・ブルトン『ナジャ』(岩波文庫版)

序言(遅れた至急報)

1962年改訂版に付された序言:新たに手を加えることへの弁明

「記述の意図的なつつましさ」(8)

・描写を排した写真図版

・観察記録の語調

客観性への敬意

 

本文

「私は誰か?」(11)とは誰と「つきあっているか」。この言葉は「ある人々と私とのあいだに、思いもよらなかったほど奇妙な、避けがたい、気がかりな関係を結ぼうとする」(11)。

「私」はごく不安な存在になってしまう:未知の活動の「一部」としての「私」

「自分にあると知っている嗜好とか、自分に感じる類縁性とか、自分に受けいれる魅力とか、自分におこる、そして自分にしかおこらない出来事とか、そういうものの一切をこえて、…私がほかの人々とくらべて区別されるところは何に由来するのか、とはいわないまでもどんな点にあるのか、それを私は知ろうとつとめている。」(12〜13)

批評とは:「作品の外にあり、日常生活の些細なことがらにとらわれている作家の人格が、まったく独立して、しばしば独特のかたちで表現されるような領域」(13〜14)の探求

ジョルジョ・デ・キリコ:一見無関係に見える事物の配置

ブルトン:心の傾き、「なにか重大で本質的なことがふくまれている特別でいわくいいがたい感動」(22)

「特殊な恩寵や失寵」を浮かんでくるままに記述すること。

 

1918年ごろのパンテオン広場偉人ホテル→1927年8月現在アンゴの館

記述の中に出現する誤り・書き落とし:精神分析的に解釈せず

生活に登場する奇妙な一致、偶然をそのまま記述する

「おこるにあたいする何かがおこりそうだという印象」(33)

「彼の予告した相手にかならず会えることを確信できないような約束は、ただのひとつもない」(37)

「パリではきっと私に出会えるものと思っていい」(38)

内面の表出ではなく「神託」(37)として、この記述を捉える。

「パリの生活」と『ナジャ』の記述に「神託」的な偶然/必然によって、出会われる。

「誰とつきあうか?」→「私はそんな女と出くわさなかったavoir rencontréeことを信じがたいほどに悔やんでいるregrette」(46)

※普通「後悔」するのは、自らの自由意志によって選択可能と思われる場合のみ。なぜ偶然の出会いの未遂を「後悔」するのか?

 

精神の奥底へと本当におりてゆく:「双面劇場」へともどってゆくこと

『気のふれた女たち』物語:

舞台はある私立女学校の女校長の執務室、女校長はソランジュの到着を待つ。庭師が入ってきて、ソランジュを見かけなかったという。また別の年配の婦人が入ってきて、孫娘について相談。本人も呼び、説得。再びひとりになった校長のもとにソランジュがやってくる。ソランジュも教師で、女生徒のことなど話題にする。と、ボールが執務室に入ってきて、当の女生徒が登場する。

次の場面。夜の控え室。孫娘の失踪。医者は昨年も失踪者があったことを思い出す。庭師は不吉な予感に駆られる。ソランジュ登場。戸棚から少女の遺体。

ソランジュの美しさ。

57~60ページにかけて長大なカッコ。昨夜交わした会話に由来する無残な夢。日常のことや『気のふれた女たち』などから生成された夢のイメージ。

 

アルチュール・ランボーの及ぼした魔法の力により「ある若い娘と出くわすことができた」(60)。

別の蚤の市で、文学に詳しいファニー・ベズノスと出会う。

ひとりの貴婦人がシュルレアリスム本部で青い手袋を寄贈しかけるが、ブルトンは阻止する。しかしこのことがブロンズ製の手袋との出会いをもたらす。「事態のもっとも大きな真正のひろがり」(65)に開かれる。

 

ルイ・アラゴンの見せる「赤い家」と「警察」の文字の転換、手袋の貴婦人の見せる「虎の図」と「天使の図」の転換。両者の関係付けの不可避と合理的説明の困難さ。不意の関連付けの偶然性と必然性。あるいは偶然だからこそ、必然?

人々を街路へと駆り立てる小説。「どんなに小さな事実でも、本当に思いがけないものとしておこった場合、計算や熟考はむなしく風に運びさられてしまう」(69)。予期を前提とする労働はここでは無意味。それを理解させてくれたのがナジャの登場。

 

昨年の10月4日、ラファイエット通り。なんでもない日。

「とつぜん、まだ十歩ほど先だろうか、逆方向から、ひとりの若い女がやってくるのを見る。」(71)奇妙ないでたち。だが「ためらわず、ただし最悪の事態も覚悟していたことは認めるが、この未知の女に声をかける。」(73)実際、ナジャはなんの目的もなく歩いていた。謎めいた身の上話。「ナジャ」も自分で選んだ名、「なぜって、ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだから。」(76)

ナジャは夕方の地下鉄車両を好む。そこには「まじめな人たちがいるんです」(78)。ブルトンは反論する。「自由とは永遠につづく解放のことです」(79)。それは労働者には不可能。

ナジャはブルトンを崇拝する。ブルトンはナジャの「自由」に魅せられる。「いまだかつて彼女のなかにしか見たことのないあの軽さが、たぶん正確にはあの自由が。」(82)「あなたは誰?」「私はさまよう魂」(83)。翌日も会う約束。彼女が私に惹かれるのは「率直さ」

 

10月5日

昨日とは別のナジャ。ナジャに『失われた歩み』『シュルレアリスム宣言』を見せる。詩との共感。

ナジャの二人の男友達の話。ナジャの空想ゲームのような遊び。※「自由連想法」的か。ナジャはまたもとの場所へ戻ってゆく。

 

10月6日

「ア・ラ・ヌーヴェル・フランス」でナジャと落ち合う約束。だが、予想もしない場所ですれ違う。私には会いたくないという様子。後を追いかける。喫茶店に入る。貸していた『失われた歩み』中「新精神」の記述との奇妙な一致(女性を追いかける)。ナジャは内容の説明を求めるが、ブルトンは拒否する。「そんなことはなにも知らないし、このような領域で許されるのは証人になる権利だけだと思う」(91)だがナジャは納得しない。

帰る「途中、黙ったまま、私の顔を長いことまじまじと見つめている。それから彼女の目はとじられ、すぐまたひらかれる。まるで、もうずっと会えないと思っていた誰かが、いま目の前にいるかのように。」(91)するとナジャの態度に変化。

私にとって不可解な『溶ける魚』中の舞台劇に、ナジャはむしろ慣れ親しんでいる。だが、『溶ける魚』別の箇所との混同も発生。アンリ四世ホテルが様々な恐ろしい想念をもたらす。裁判所付属監獄のほうへ移動するが、ここでも想念が。ナジャは歴史上の出来事を自分のこととして捉えてしまう妄想?「あなたはあのころ、誰だったの?」(98)

93ページの註に実在の占い師のサッコ夫人言及。巌谷によればサッコは「略奪」や「袋」を意味する。

放心状態のナジャを引き戻す。ボードレールの詩も不安をかき立てる(その表題中の「接吻」は91、92ページと対応?)。ナジャはセーヌ河に浮かぶ燃える「手」についての説明を求める。

※解釈や説明を拒むブルトンに対して、説明を求めるナジャという対比。両者のすれ違い?

真夜中ごろ、テュイルリー公園に。そこの噴水がちょうどブルトンが読んでいた『ハイナスとフィロナスの対話』における噴水にそっくり。ナジャは過去の結婚や子供を思い出す。だが、ブルトンはそれには興味を惹かれない。翌々日にまた会うことにする。すこし間をおいたのは、ナジャの混乱が収まるように?

 

10月7日

今日会うべきだったと「悔やまれるreproché」(104)。※この「悔やみ」の様態は? ナジャを愛しているのか、いないのか。「私は彼女の近くにいながら、彼女の近くにある事物たちのほうにいっそう近いのだ」(105)ナジャが自分を求めていることだろうを認識している。自分が彼女の「自由であるlibre」ことに惹かれていることを説明するべきだろうか。「いや、もうこれっきり会わないとしたら?そうしたら、私はもう知ることがなくなるだろう。つまり、もう知らないのが当然という身になってしまうだろう。」(105)

もう二度とおこらないかもしれない出来事を求めて、ナジャを探す。「万が一の場合」にこそ、ナジャが介入する余地がある。そして再び「偶然の出会い」(107)。だからこそ「彼女が私の意のまま」(107)なのだとナジャがいう。ナジャの困窮の打ち明け。500フランを用立てる約束。再び軽やかさと熱っぽさの回復。聖体拝領のたとえ。

 

10月8日

アラゴンの送ってきた手紙中のウッチェッロの絵画に『聖体の冒涜』とあるのを発見。いつものバーでナジャを待つが会えない。さらに心配が募る。なぜか首尾よく彼女の住むホテルを見つけ、書置きを残す。

 

10月9日

ナジャが電話をかけてくる。しかし「あたしには連絡がつきません」(110)。気送速達便によって来た誘いによって、バーで再会する。実はブルトンが勘違いして、約束をすっぽかしていたことがわかる。

老人が売るフランス史に関係のある版画をナジャに説明する。

ナジャが最近の手紙を見せる。そこには最近ポール・エリュアールが失念した裁判長の名前も。

 

10月10日

マラケ河岸のレストランで共に夕食を摂る。ナジャは給仕たちの「労働」を混乱させる。

ナジャは占いによって行先を決める。

ナジャに催眠術をかけた老人「大親友」の話。

セーヌ通りへ。ナジャは空中の「手」に心を奪われる。「火の手」は「あなた」である「アンドレ」に結びついてゆく。

「あたしは鏡のない部屋のなかで浴槽に浮いている思考なの」(118)

昨晩、ナジャに起こった奇妙な出来事。老婦人との会話。

 

10月11日

ナジャの遅刻。通りをぶらつく。よそよそしい気分。「時間は意地悪なもの、なぜって、なんでもきまった時間におこらなければいけないから」(121)。苛立ち。マジャンタ通り「スフィンクス-ホテル」の前に来る。※『オイディプス』において、スフィンクスは謎掛けをする。

 

10月12日

ナジャの肖像をマックス・エルンストに依頼する件。だがサッコ夫人による不吉な予言もあり、断念。ナジャが絵を見せてくれる。長方形の仮面だけはうまく説明できない。ナジャはL字の筆記体に興味を抱く。

夕食後、パレ-ロワイヤルの庭園へ。ナジャの夢は神話的性質を持つように。彼女の話す意味がわからなくなる。サン-ラザール駅へ。ナジャは親密さを取り戻す。列車に乗る。「彼女の信頼のすべてが、注意力のすべてが、希望のすべてが、私にもどってきている。」(126)再びナジャの幻視。だがそれは実在の人物だったことが分かる。男たちからのナジャへの挨拶。

なにを追っているかわからない追跡行(「私たちは誰だったのだろう?」)。まだ終わることができない。様々な事物が「私」を照らし出す。ナジャと私はどうして「視線のいくつかをかわすことができたのだろう?」(129)。

互いを神聖な存在として崇める。だが遠い存在でもある。希望と恐怖が混じり合うなか、ナジャの「羊歯の目」(130)が開かれる。ナジャがどこか遠くに行くような。

「誰が本当のナジャなのか?」(133)ブルトンはナジャのいくつかの側面には拒否的。彼女への失望と別れの決意。しかし「別れが決定的に不可能になるかどうか、それは私ひとりにかかっていた」(136)

その後もナジャと会う。しかし「彼女自身のなかにある人間としてもっとも限定を与えられている部分を引きずりこむ修復のきかない破綻、つまりあの日に私の感じとっていた破綻が、少しずつ私を彼女から遠ざけていったのかもしれない。」(136)

奇蹟としての彼女が生活の中に飲み込まれて行ってしまうことへの不安。ナジャの生活の困難を解決することの難しさ。

今はナジャの言葉を書き連ねるのみことしかできない。

「恋人たちの花」。交錯しあう視線(129)。ここにも炎のモチーフ。ナジャのデッサンのいくつか。それらの要素の中には予言的なモチーフも(角など)。奇妙な一致。

最後の出会いの時にも、未完成のデッサンを見せられる。

「私はもうかなり長いあいだ、ナジャと理解しあえなくなっていた。」(157)生活上のことへの、さらにブルトンへのナジャの無関心。結局奇蹟は続かなかった。

 

伝えられるナジャの「狂気」。ブルトンは精神病院への押し込めに反対。「精神病院こそは狂人をつくるところだ」(163)。患者の「非社交性」(164)への世間からの非難が回復を妨げる。

ナジャの運命に悲観的。貧困と孤独。ナジャを社会性から離脱させた「自由の享受」の信念を、どこかで引き止めるべきだったのかもしれない。彼女は「生存本能」(168)すら放棄していたのだろうか(178ページの註も)。 cf.『啓蒙の弁証法』

真実よりも意義深い「詭弁」によって、「私は私自身に対して、またはるか遠くから私自身と出会うためにやってくる人に対して、いつまでも悲しみをかきたてる叫びを、「誰がいるのか?」という叫びを投げかけることができたのだ。」(171)しかしそれも不確かになってしまった。

 

一冊の書物を書き上げることの困難。どの行間にも隙間・飛躍が潜んでいる。「今」の私には物語全体を再構成することができない。8月末から12月末までの物語の中断。(注:12月末からは別の物語が開始する。)その間私はどうにかこうにか生きて来た。ナジャとは異なる新たな「名前」の人物と共にある。

 

「今」の地点から、物語全体を見てみる。図版のためにいくつかの場所を再訪したところ、元の状態とは変わってしまっていた。諦念。「心の風景を素描のままのこそう」(181)。予期は役に立たない。「無意識状態をあてにすることしか望まない」(183)

無意識の空間としての「都市」。

最近聞いた自分の部屋番号を忘れてしまう紳士の話。

(・・・)

この話をまだ知り合って間もない頃、「君tu」に聞かせた(「・・・」の間には一定の時間?)。謎めいた呼びかけの対象「君」。「君」はここまで書かれた物語を読む。「君」だけがこの物語を出入りする。あらゆる試練に耐える「極限的な愛」の定立を書いたことも後悔している。「君」は一人の女性。

※訳注によれば「君」はシュザンヌ・ミュザールという女性。ミュザールとの関係が深まったのは『ナジャ』が第二部で行き詰っていたとき。

「君自身のなかでは感じとられていなかった何ものかの力」(11)を私に感じさせる。「君」は理想の美であり、だからこそもう二度と会えないかもしれない。やはり「君」のなかに「精霊」を信じるが、それを引っ込めても構わない。「君」はそのほかの親しい女性たち(「像」)を覆い隠してしまった。

 

この本も「君」には必要ないかもしれない。だが元々予定していた本の「結語」は「君」を通じてしか、意味を持たない。

「一切か、無か」という「君」の言葉(187)。生存の権利を失っても、「情熱passion」に従うという意思。

(・・・)

「美beauté」と「情熱」。動的でも静的でもない「美」。ちいさな取るに足らない「ぎくしゃくとした動きsaccade[辞書的には急激で不規則な動き]」がやがて大きなひとつのそれSaccadeをもたらすだろう。

行方不明になった飛行機からの救難信号。聞き取り難い外部からの通信。あらたに連絡をとることも不可能。ここでブルトンが自分に比しているのは、行方不明の飛行操縦士か無線通信士か。

 

「美は痙攣的CONVULSIVEなものだろう、それ以外にはないだろう。」(191)