カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

第2章 人間の義

神の怒り=死を免れる人間はいない。「人間を神の怒りからまぬかれさすいかなる人間の義もない」(56ページ)。もしなんらかの善行を行うことによって、神に近づきうると考えるなら、それは不信仰である。

しかし、そうした人間の「空洞」「欠如」を承認したうえで、「人間的制限の中で、歴史的、精神的に神に対する畏敬と謙遜として、つまり神自身の探究、神のみの探究として現実的となるものにはそれゆえ、事実上の神の発見が対応するという奇蹟が生じうる」(62ページ)

そうした者には「永遠の生命」が約束される。これは永久にその人物が生きるという意味ではない。それは、「ある者がこの世において「肉」というまったくの弱さをもち、最高の疑わしさのあらゆる兆候をもっていながら、なすことは善であり、きたらんとする世の栄光、ほまれ、平安をすでにみずからにそなえている ということ」(62ページ)である。

ただし、これは「神からの可能性」であり、人間自身の力によるものではない。

 

「人間の義それ自体は慢心である。」(73ページ)しかし「神の前では、神からの一つの義が存在しうるかもしれない」(同)。

*ルターの影響が認められるか。

 

第3章 神の義

全ての人間が原罪の下にある。「義人はいない、一人もいない」(83ページ)。歴史とは「一方の人間が他方の人間に対して精神と力のいわば優先権をもとうとする企てであり、・・・たがいにきそいあう新旧の人間の義の浮き沈みである」(75ページ)がゆえ、神の前に歴史は終わる (=否定される、無効化される)

 

律法とは?

律法によってもたらされるのは、善ではなくむしろ罪である。「律法はかれらを告発し、かれらを神の前に罪人と宣告する」(87ページ)。律法はあまねく人間に自らが罪深い存在であるという意識を植え付ける。この点で、評価できるものである。しかし・・・

「律法とは別に、律法と預言者たちによってあかしされた神の義があらわされた。」律法のもたらす罪の意識が反転する。「否の中にある然りの、この世の救いの、断罪の中にある無罪判決の、時間の中にある永遠の、死の中にある生の音ずれがそれ自身基礎づけられる。」(89ページ)。

*バルトは律法をあくまで一つの制度としての宗教の要素として捉えている。しかし、それを超える論理がここで導かれている。

「神は「律法」のあるところで語る。しかし神は、いかなる「律法」のないところでも語る」(89ページ)

 

反転する神の怒り

「神の怒りもまた神の義である」が「神の怒りは、神の否を否として聞かざるをえない不信仰者にあらわされる神の義である」(同)

*バルトの論理のもっとも中心的な部分。純粋に人間を罰する存在としての「神」は不信仰者から見た神である。しかしこれ自体が人間=世界の側からの神観であり、バルトはこの神観の超越を強調している。つまり神の否を然りと聞きとるような意識である。

「神の義とはわれわれによってはばまれていた真理の自己解放である」(90ページ)

*神の義は超越的な真理であり、同時にその開示でもある。すなわち、人間にとって「神の怒り」と見えたものが、神においては「神の義」である、ということの気づき、これ自体が奇跡とされる。

「われわれは信ずるが、そのかぎりでわれわれは人間が神によって廃棄されたのを見る。しかしまさにそれゆえわれわれは神において廃棄されているのを見る。・・・われわれは人間が裁かれているのを見る。しかしまさにそれとともに正されているのを見る。」(91ページ)

「神において」とは、この気づきが既に人間世界ではなく、神の国においてなされていることを示している。このとき人間は廃棄されていると同時に救済されている。このことを人間世界においてしめしたのが「イエスの復活」である。同時にこうした気づきは常に起こりうる物でもある。「信仰はつねに同じ「それにもかかわらず」であり、同じ例のかつてないことであり、同じ冒険である。」(96ページ)

 

人間の義と神の義の関係

「神の義の大きな不可能性は、まさしく、先行する、あるいはあとからつけ加わる人間の義のこの一見きわめて可能な可能性を絶対的に妨げるものとなって妨害する。」(104ページ)