テオドール・W・アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)

第7章「バッハをその愛好者たちから守る」

1.存在論的バッハ観の流行について

「彼の音楽の目下の機能は、人間の上に置かれて現存在を離脱しているけれども、同時に明白な神学的内容をもたずに済む抽象的な原理の設定によって個人主義的状態を克服すると約束する点で、存在論の流行と似ている」(pp197-198)

  歴史主義的バッハ理解の流行について

「その政治的英雄を奪われた反動勢力は、彼らが「聖トマス教会聖歌隊指揮者」という恥ずべき名のもとに長いこと抑えこんできた人〔バッハ〕を乗っ取る」(p198)

 

2.

「個人をその歴史的な意識状況に対する関係から孤立させようと企てるのは恣意でしかない」「そのピエティズム[経験主義]そのものが、復古主義のあらゆる 形態と同じように、それと対立した同じ啓蒙の緒力を自己のうちに含んでいた、と。自己のうちに沈潜することで、反省された「内面性」の力によって恩寵にあ ずかることができると考える主体は、すでに教義的な秩序を脱して自分の足で立っている」(pp199-200)

「歴史主義が悪魔を払うように追い払いたがっているあの神経質な過敏性の意味においても、十分に近代的である。これに対して、それはロマン主義的誤解であ ると言う人がいるなら、その人は〈証明されるべき論題〉のために、モンテヴェルディーからシェーンベルクにいたるまえ音楽の根底に前提として置かれている 音楽語法の意味と自発的に係わることをすべて諦めねばなるまい」(p201)

「バッハ的存在論という幻想は、自分に芸術的センスのための器官がないために、ひたすら芸術に服従することしか望まない野暮天の機械的暴行によって生み出されたものである」(p201)

 

3.

「それは孤独な主体を感覚のギャラントとして映し返すのではなく、むしろ客観的に包括的な絶対

者のうちでの主体の止揚を目指している。だが、この絶対者は、まさにそれが肉体的経験の前に現前していないがゆえに、そしてその限りにおいて宣誓され、主張され、設置される。そしてバッハの力は、こうした宣誓の力である」(p203)

「バッハを社会的に解読する以上は、(略)この技法を、同時代にマニュファクチャーを通じて広まった労働過程の変化と関連づけなければなるまい」 (p205)「おそらくバッハのもっとも内なる真理は彼において市民時代のもっとも強力な動向であるこの社会の動向が画像のなかに反映されることによっ て、単に確認されるだけでなく、人間的なものの声と融和していることである」(p205)

 

4.

「作曲家が自分の音楽について考えることとその音楽の内在的本質、すなわちその客観的に固有な法則と一致しなければならないなどとは、どこにも書かれていない」(p207)

「彼のさまざまな擬古主義的手法は、音楽言語の決定的進歩の影の部分をなしているあの音楽言語の貧困化と硬直化を止めようという試みを自己のうちに含んで いる。それらの手法は、とどまることを知らず音楽の主体化と一体になって勝利を収めつつある音楽の商品性格への抵抗を目指している」(p209)

「重要なのは、和声的・機能的次元と対位法的次元とが構造の最も微細な規定にいたるまで掛値なしに一致することである。かくして、とっくに過去となったものが音楽的な主客一体というユートピアの担い手となり、アナクロニズムが未来の使者となる」(p210)

 

5.

「後期ロマン派の肥大したセンチメンタルなバッハ像に対する批判が正しいことは(略)だが純粋派が、それがなによりも自慢する即物性をもっているというこ とは、やはり否定されねばない。即物的なのは、もっぱら、その事象の本質にふさわしい形で示される音楽のプレゼンテーションだけである」(p211)

「真正な作品は、時代のなかにおけるその形式法則の客観性によって、個人の意識圏を超えて自己の真理内容を展開するものなのである。」(p212)

「彼の作品の中に客観的に封じ込まれている力動にふさわしいのは、ただその力動を現実化するような演奏[解釈]だけである」(p213)「この主体的努力 をひたすら主体の絶滅へと向かわせることによって、バッハの客観的内容に権利を得させようとそれを助ける企ては、本末転倒もはなはだしい」「楽譜に忠実で ありながら同時に楽譜が自分のうちに隠しているものを掴み出すことがつねに要求される」(p214)

「この音楽は、それが怨恨と反啓蒙主義の勢力圏から、すなわち主観主義に対する主体のない人々の勝利からもぎ取られたときはじめて再び雄弁になる」(p215)

「バッハを公平に扱うことは、様式論の専門家が王位を簒奪することによってはできない。それはただ、自己展開するバッハの作品の立場と重合するような、もっとも進歩した作曲活動の立場からのみ可能である」(p216)