イマニュエル・カント『実践理性批判』 [1788](波多野精一、宮本和吉、篠田英雄 訳:岩波文庫、2013年)

 

第二章 純粋実践理性の対象の概念について(126)

「純粋実践理性の対象の概念とは、自由[の原因性]による可能的結果としての対象の表象のことである。」(126)

  在るものが純粋実践理性の対象である=或る行為――すなわちそれによって或る種の客観[対象]が実現されるような行為を意欲することが可能である(126)

  この場合、行為の規定根拠は、意志の対象ではなくて、意志の法則である。(127)

「実践理性の唯一の客観[対象]としては、善と悪という二つの対象があるだけである。

(127)

善の概念を、法則の根拠としてはならない(=道徳行為を規定するのは善/悪という対象の特性である、としてはならない)。

  善の表象が「快」の感情をもたらすから、それを意欲するのだ、ということになってしまう。何が快であるかは主観の特性によって決まるのであり、快/不快をアプリオリに決定することはできないのだ。(127)

  「善もしくは悪は、もともと人格による行為に関係するのであって、人格における感覚的状態に関係するのではない。」(131)「それだからひどい痛風に悩んで、『苦痛よ、君がいくら私を責めさいなもうとも、私は君を何か悪いものだなどと言わないぞ!』と絶叫したストア学派の哲学者を、いくらでも笑うがよかろう、しかし彼の言い分は正しいのである」(131)

「我々が善・悪と名づくべきものは、およそ理性を具えている限りの人間の判断において、欲求能力の対象でなければならない、また悪はおよそ衆目の見るところ常に嫌忌の対象でなければならない、すると善・悪を判定するには、感官のほかになお理性を必要とすることになる。」(132)

善悪の判断における理性の役割:「それ自体善でありあるいは悪であるところののもの、従ってまた純粋理性が感性的関心にいささかも煩わされることなく、独自 に判断し得るところのものをも併せ考えるばかりでなく、またこの[それ自体善もしくは悪なるものの]判定を、さきの[幸・不幸の]判定から截然と区別し、 またかかる[善・悪の]判定を、[実質的な]善あるいは悪なるものの最高条件とするためにほかならない」(134)

  意志の格律が、快・不快の感情によって動かされるならば、そのような意志は純粋意志ではない。純粋意志は、純粋理性がそれ自体だけで実践的であり得るところのもの[実践的法則]にのみ関係するのである(136)

実践理性の批判における方法の逆説(パラドックス)=「善の概念および悪の概念は、道徳的法則に先立つのではなくて(善および悪の概念のほうが道徳的法則の根底に置かれなければならないと思われるかも知れないが)、(いまここで述べるように)道徳的法則のあとにあり、この法則によって規定せられねばならな い」という説。(136)

  「道徳哲学の最高原理に関して、哲学者たちを甚だしく混乱せしめた原因は、これによって一挙に解明せられるのである。かかる混乱を招いた原因は、彼等が意志の対象を法則の実質および根拠にしようとしたところにある(そうすると実践的法則は、意志を直接に規定する根拠ではなくて、快・不快の感情を生じせしめた対象を介して、意志の規定根拠となるわけである)。」(138)

  「古代の哲学者たちは、道徳哲学に関する彼らの研究を、最高善の概念を規定すること、従ってまた彼等があとで道徳的法則による意志の規定根拠たらしめようとした対象の概念を規定することに専念した」「近世の哲学者たちになると、最高善の問題はすでに時代遅れになり、少なくとも主流的関心でなくなったかのように見えるが、しかしこの人達とても、上に述べたのと同じような誤りを(ほかの多くの場合と同じく)曖昧模糊とした言葉の背後に隠しているのである、それにも 拘らず彼らの体系は、かかる誤りを瞥見せしめる、――それというのもこの誤りは、随処に実践理性の他律を露呈するからである、――しかしかかる他律から は、アプリオリに命令する普遍的な道徳的法則は断じて生じ得ないのである。」(139)

自由のカテゴリー(140-)

  カテゴリー=純粋悟性概念

  純粋理性批判(理性の理論的使用、ものの認識)におけるモデル(復習)

  客観の認識:「直観における多様なものが一つの意識にあたえられたうえで、この多様なものが綜合的統一によって規定される

  (140)

  「自然のカテゴリー」=「我々に可能な[感性的]直観の無規定な客観一般を普遍的概念[カテゴリー]によって表示する」(141)

  自然のカテゴリー表(プロレゴメナ p.109-110)

 

1 分量

   単一性

   数多姓

   総体性

2 性質

   実在性

   否定性

   制限性

3 関係

   実体

   原因

   相互性

4 様態

   可能性

   現実的存在

   必然性

 

実践理性批判(道徳的法則、行為および意志の規定)におけるモデル

  純粋理性による認識では、感性的な直観を経験的な規定根拠とする原因性によって、自然のカテゴリーのもとに概念が統一される。しかし、実践理性においては、 感性的な直観の原因性が意志を規定するのではなくて、「多様な欲求を、道徳的法則として命令する実践理性――すなわちアプリオリな純粋意志としての実践理性のもとに統一する」(140)。

  しかし同時に、「[理性的存在者の]行為は、一方では、[…]自由の法則に支配せられ、従って可想的存在者の所業に属するが、しかしまた他方では、感性界における出来事として現象にも属する」

  「純粋実践理性による一切の指定において肝要なのは、意志を規定することであって、意志の意図を実現するための(実践的能力の)自然的条件ではない、それだか ら自由という最高原理に関係するアプリオリな実践的概念[自由のカテゴリー]は直ちに認識となるのであって、意義[客観的実在性という]を得るために直観に頼る必要はない」(141)

 

純粋理論理性(概念認識)←悟性(自然のカテゴリー)←直観

純粋実践理性(道徳法則)→悟性(自由のカテゴリー)→意志/行為

自由のカテゴリー表

1 分量

   単一性 主観的(個人の格律)

   数多姓 客観的(原理、指定)

   総体性 自由のアプリオリな法則

2 性質

   実在性 為すこと(命令)

   否定性 為さぬこと(禁止命令)

   制限性 例外

3 関係

   自存性 人格性に対する関係

   依存性 人格の状態に対する関係

   相互性 人格の間の関係

4 様態

   可能と不可能 許されたことと許されぬこと

   存在と非存在 義務と義務に反すること

   必然性と偶然性 完全義務と不完全義務

「自由のカテゴリーには、直観の形式(空間および時間)の代りに、実践的な基本的概念として純粋意志の形式が理性において―したがってまた思考能力そのものにおいて与えられたものとしてその根底に置かれているのである。」(141)

純粋な実践的判断力の範型論について(144)

(前項までのまとめ)「善および悪の概念が、意志に対してまずその客観[対象]を規定する、しかし善・悪の概念そのものは理性の実践的規則に従っている、そして理性が純粋理性であれば、この理性は意志をその対象に対してアプリオリに決定するのである。」(144)

「感性界において我々に可能な行為が、このような実践的規則に従っているかどうかを決定するには、実践的判断力が必要である、この判断力によって、実践的規則では普遍的(抽象的)に表現されていたところのものが、行為では具体的に適用されるのである。」(144))

  判断力が直面する困難=「感性界において生起し、従ってその限りにおいては自然に属するような出来事としての行為に、自由の法則が適用されることになる」(146)「[…]無条件的善の概念には、これ[理論理性のように]これと対応するような直観はまったく与えられ得ないし、従ってこの概念を具体的に適用する図式もまた与えられ得ないのである」(147)

「… この場合に悟性が理性の理念[無条件的善という]に対応せしめ得るのは、感性の図式ではなくて法則である。とはいえこの法則は、感官の対象[行為]におい て具体的に提示されるような法則であり、従ってそれは自然法則ではあるが、しかしその形式に関してだけ判断力を使用するための法則として、道徳的法則に対 応し得るのである。そこで我々は、かかる法則を、道徳的法則の範型(Typus)と名づけてよいと思うのである。」(147)

判断力の規則=「君自身が自然の一部であるとすれば、その君の企てる行為は、自然法則に従って生起するわけだが、それでも君はかかる行為を君の意志によって 可能であると見なし得るのかどうかを自問してみたまえ。」「何人も、このような規則に従って、自分の行為が道徳的に善であるか、あるいは悪であるかを実際 に判定するのである。」(147-148)

  感性界の自然法則によって、行為の結果が決まっている(行為による経験的な利益なども含む)。自然の法則(「XXという行為をすると、YYYという結果が得られる」)を自由の法則に合致しているかどうかを判断することができる。「しかし自由による原因性が判定される場合にだけ、普遍的自然法則を自由の法則の範型とする」(148)

  行為という感性界の出来事を、可想的(道徳性)原因性の判断のモデルとして使っていい理由:形式としての「合法則性一般」のみを考慮するという限定をしているから。(149)

範型論の利点

  経験論を防止すること:「経験論は、善および悪という実践的概念を、経験における結果(いわゆる幸福なるもの)にのみ求めようとする、もっとも幸福と、自己防衛[自愛]によって規定された意志から生じる無数の有利な結果とは、もしこの意志が自分自身を同時に普遍的自然法則たらしめるならば、確かに道徳的善に 対する極めて適切な範型たり得るが、しかししょせん道徳的善と同一ではないのである」(150)

  神秘説を防止すること:神秘説とは「道徳的概念を適用する根拠を、現実的ではあるがしかし感性的でないような直観(神の国という見えざるものの)に求めて、超絶的なもののなかに迷い込む。」(150)自然法則のモデルにおける感性的な法則に反する。

 

第三章 純粋実践理性の動機について(152)

道徳的法則は意志を直接に規定するのであって、感情という要素が入り込む余地はないように見える。しかし「道徳的法則が、意志を[客観的]に規定するに十分な根拠となるためには、やはり媒介者としての感情が前提されなければならない」(152)

動機=「或る[有限な理性的]存在者[人間]の意志の主観的な規定根拠」(152)

道徳的法則は、どのようにして動機となるのか(153)

消極的な動機=感性的衝動を拒否し、また「傾向性が道徳的法則に反するおそれのある場合には、およそ一切の傾向性を挫折せしめ、道徳的法則によって規定せられる」(154)

積極的な動機=「道徳的法則は、独りよがりを打ちのめしてこれをへりくだらせることによって、最大の尊敬の対象となり、従って或る積極的感情――換言すれば、経験的起源をもたないような、そしてまたアプリオリに認識されるような感情の根拠にもなるのである。それだから道徳的法則に対する尊敬は、知性的根拠 によって生じるような感情でもある。この感情は我々がまったくアプリオリに認識し得ると同時に、またその必然性を洞察し得る唯一の感情なのである。」(155-156)

ただしこうした感情は、「道徳性に先立つのではない。」「道徳的心意を生じせしめる動機は、一切の感性的条件にかかわりないものでなければならない。」(159)尊敬の感情と快不快は一致しない。(162)

義務:「行為が、道徳的法則に従い、また傾向性に由来する規定根拠をことごとく排除して客観的に実践的であれば、この行為は義務と呼ばれる。義務は、このよ うに傾向性に由来する一切の規定根拠を排除するところから、義務の概念のうちには実践的強制が含まれている、そしてこの強制は、たとえ或る行為がいやいや ながら為されようとも、その行為を[道徳的法則に従って]規定せずにはおかないのである。」(168)

  「…この感情は、道徳的法則への服従として、換言すれば命令として(この命令は、感性的に触発された主観に強制を通告する)、行為に対する快よりも、その場合にはむしろ不快を含んでいる。」(168)

  「…この強制は、まったく自分自身の理性の立法によってのみ自分に加えられるのであるから、かかる強制の感情はまた[主観の心における]高揚を含んでいる。」(168)

  道徳性判定において最大の関心事=行為が義務にもとづいておこなわれたかどうかであって、行為から期待される成果に対する愛着にもとづく行為の必然性ではない。(170)

 

純粋実践理性の分析論の批判的解明(184)

純粋理性批判(思弁的理性)のモデルと、実践理性批判のモデルの比較 

   (議論の対象 理性の役割 議論の順序 研究対象)

純粋理性批判:悟性に与えられる対象の認識  直観の対象を提示する  先験的感性論から先験的論理学へ(感性から悟性へ)  普通の認識とは異なる知識領域(数学と自然科学)

実践理性批判:対象を実現するための能力としての意志  原因性の法則を提示する  論理学(理性の形式)から感性論(道徳的感情の議論)へ  普通の理性の判断

 

自由がどうして可能か:これは直接演繹して証明することが不可能。そのかわり、「かかる自由を不可能であるとする証明は為され得ないということが十分に確認 できさえすれば、そして自由を要請するところの道徳的法則によって自由を想定せざるを得なくなれば、更にまたまさにこのことによって自由を想定する正当な 権利が認められれば、それだけで仕合せなのである!しかし世間には、このような自由を理解しない人たちが大勢いて、自由を人間に具わるほかの自然的能力と 同列に置き、依然として経験的原理に従ってこれを説明できると信じているのである。」(193)

自由と因果関係

  自然必然性の法則は「物の現実的存在が時間において規定される」ことを要請するからといって、一切の物自体は原因性によって存在すると考えるならば、「自由は、およそ無意味で不可能な概念として廃棄されなければならない。」(195)

  こうした原因性は現象の世界だけの法則であって、物自体としての存在者[可想的存在者]には自由がある、と考えればよい。(195)

  盗みを働いた人が「自然法則の原因性によって起こったことなのだから、俺には責任はない」と主張できるか?

     「… 自然必然性は、時間的条件に支配されているような物の規定に、従ってまた現象としての行為的主観であるような物のみに属するということであり、またその限 りにおいて、この主観の行為の規定根拠は過去の時間に属し、もはや彼の自由にならないもの(彼が過去に犯した所業や、またかかる犯行を彼に規定するところの性格――換言すれば、彼自身の眼に映じた性格もまたフェノメノン[現象的存在]としてそのなかに数え入れられねばならない)のうちに存する、ということ である。」(199)

     「しかしまた他方では、自分自身としても意識しているところのこの同一の主観は、彼の現実的存在が時間的条件によって制約されていない限りでは、この現実的存在をも、彼が理性によって自分自身に与える[道徳的]法則によってのみ規定されるものと見なすのである。」(199)

     「それだから彼のこのような現実的存在においては、何ものも彼の意志規定に先立つことなく、彼の一切の行為やまた一般におよそ内的感官の変化に応じて彼の現実 的存在に与えられるところの千変万化する規定はもとより、感性的存在者としての彼の実在を形成するところの[現象の]全系列すら、彼が自分自身を可想的実 在に属するものと見なす意識においては、ノウーメノン[可想的存在者]としての彼の原因性の結果にほかならないのであって、このような原因性の規定根拠と 見なされるべきではない。」(199‐200)

良心と後悔の役割(200)

  「良心と呼ぶところの能力のくだす判決」(200): 「久しい以前に犯した所業を思い起こすたびに、過去のかかる行為に対して後悔の念が起きるのは当然である。後悔は、道徳的心意によって生じた痛苦の感情で ある、しかしすでに為してしまった行為を、為さない以前に戻すに役立ち得ないとすれば、後悔は実践的には無意味であり、それどころか不合理でさえあるだろ う」(201)

  「しかし後悔が痛苦であるということには、正当な理由がある。理性は可想的実在の法則(道徳的法則)を問題にする場合には、時間の前後を問うことなく、ただこ の出来事[行為]が反法則的な所業として自分に属するかどうかを問うだけであり、くだんの出来事がいま起きたのか、それともずっと以前に起きたのかということにかかわりなく、後悔の感情をほかならぬ当の出来事に、道徳的に連結するからである。」(202)

自由と神による創造の問題:「自由を感性界に属するような存在者における自然的機制と一致させようとする限り、自由にはなお一つの困難が立ちはだかる」(204)

神の問題をどうするか=「我々が普遍的な根源的存在者としての神は実体の原因でもある[…]ということを想定するや否や、次の命題もまた認容せざるを得ないように思われる、それは――人間の行為の規定根拠は、まったく彼の力の外にあるもの[彼の自由にならないもの]のなかに、すなわち人間と異なるような或る 最高存在者の原因性のなかにある、そして人間の現実的存在と彼の原因性による規定のすべては悉くかかる最高存在者に依存している、ということである。…人 間の行為が時間における人間の規定に属するにせよ、しかしその行為が単なる現象としての人間の規定ではなくて、物自体としての人間の規定であるとするなら ば、自由はとうてい保全せられ得ないであろう。」(205-206)

カ ントの解=「時間における実在は、この世界における思惟的存在者[人間]が、物を感性的に表象する仕方にすぎないとすれば、従ってまた物自体としての存在者には関しないとすれば、このような存在者[物自体としての]を創造することは、取りも直さず物自体を創造することにほかならない、創造という概念は、実在を感性的に表象する仕方や原因性に属するものではなくて、ノウーメノン[可想的存在者]にのみ関係せしめられるものだからである。従ってもし私が、感性界における存在者について「これらの存在者は、創造されたものである」と言う場合には、私はかかる存在者を、その限りにおいてノウーメノンと見なすことに なる。[…]もし我々が、時間における現実的存在を、現象だけに妥当し物自体には妥当しない何か或るものとみなすならば[…]、行為的存在者[人間]が被 創造者であるということは、自由の主張をいささかも変改するものではない、創造は、行為的存在者の感性的実在に関することではなくて、この存在者の可想的 実在にのみ関することであり、従ってまた現象の規定根拠と見なされ得るものではないからである。」(208-209)