ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)第2部

第六論文 神聖さ、エロティシズム、孤独

「結果をめざす特殊専門化の道と気まぐれに従う道とが交叉するところに、神聖さ、さらにはエロティシズムも、自らを差し出しているのです」(p435)

 

「哲学は、特殊専門化した作業として、一個の労働となっているのです。つまり哲学は、気づかないまま、私が先に語ったあの激しい感動の瞬間を排除しているという ことです。それだから哲学は、私には根本的と思える総合化作用としてあの可能事の総和にはなっていないのです。哲学は、認識を目的にしたいくつかの限定された体験の総和にしかなっていないのです。哲学は、認識の総和にすぎません。哲学は、良識をもって、いわば異物を除去する感覚で、汚れたものを、少なくと も間違いの根源を、つまり誕生、生命の創造、および死に関係した激しい感動であるものを排除するのです」(pp439-440)

 

「哲学は、規律の正しさがなければ成し遂げられないし、他方で、その対象の極限、すなわち私がかつて《可能事の極限》を呼んだものであり、生の極限的な地点につねに関係しているものを包含できないものだったら、哲学は挫折するということなのです」(pp440-441)

「エロティシズムは原則として、たった一人の人間にのみ、そして一組のカップルにとってのみ意味があるものなのです。推論的原語は、労働に劣らず、エロティシズムを拒絶します」(p444)

→哲学における瞬間、孤独の拒否への批判

 

「[キリスト教において]考えうる限りで最も断罪すべき過失の結果、つまり、最も根源的な侵犯の結果、断罪は解かれることになるのです」

「エロティシズムの方は孤独な過失であり、私たちをすべての他者に対立させてはじめて私たちをすくうことができるものです。いや正確には、エロティシズムは、幻想の幸福感のなかでのみ私たちを救うと言い換えた方がよいでしょう。といいますのも、最終的に、エロティシズムにおいて私たちを激しさの極限的な状態で導いていったものは、同時に孤独の呪いで私たちを打ちのめしもするからです」

「他方で、神聖さは私たちを孤独から脱出させます。ただしこれは幸いなる罪という逆説、その過激さが私たちの罪を贖うことになるこの逆説に同意するという条件でのことです」

「このような状況では、たった1つの逃避しか、私たちが孤独から抜けだし同胞のもとへ帰還することを可能にしてくれません。この逃避は、多分、断念〔侵犯への〕という名に値するのでしょう」

「キリスト教徒が自分の同胞との合体を見出すようになるのは、自分を解放するもの、しかし絶対に侵犯でしかないものを、つまり文明を成り立たせている禁止への侵犯でしかないものをもはや楽しまないという条件のもとでしかありえません」(pp446-447)

 

「推論的原語は、動物と対立する存在として人間を定義しているものを否定することにほかなりません」(p448)

「私が語っているのは、言葉が世界に付け加えているものを抹殺することなのです」(p449)

「エロティシズムは沈黙であり、孤独であると私は述べました。しかしこれは、世界に存在する仕方がそれだけで沈黙のまったくの否定になっている人々、つまり冗漫で、ありうべき孤独の忘却である人々にはあてはまりません」(p450)

→言語に変換不可能な沈黙を、他者と繋がらない孤独という本質を持ったエロティシズムを語ろうとしたのがこの書物である。