ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

第4章 文化産業 -大衆欺瞞としての啓蒙―

独占資本と大衆社会が一体化した産業社会においては「普遍と特殊の誤れる合一性」(252.6)が現出する。すなわち「あらゆる大衆文化は独占態勢の下では同一であり、その骸骨、つまり独占によって大量生産された概念的骨格が、正体を現し始める」(252.7)。

「文化産業の技術は、単に平均化されて規格製品と大量生産を生み出すに止まらない」(253.13)。それは個人の欲望をもコントロールし始める。というのも「中央のコントロールからいくらかでも免れうるような欲求は、すでに個人の意識のコントロールから外れている」からである(254.1)。(cf. 電話からラジオへ。個人的コミュニケーションから一律的なそれへ)

それは文化産業が提供する「商品」と消費者の「欲求」の一体化。同時に普遍的なもの=大量生産品と特殊的なもの=個人の欲求の合一である。

 

「近代性」の没落。

「消費者にとっては、それ自身プロダクションの図式主義のうちに先取りされていないようなものは何一つ存在せず、それをさらに[主体的に]分類することなぞできはしない」(259.12)。近代の主体を認識論的に基礎付けた「主観」の没落。(cf.カント『純粋理性批判』)。

あらゆる細部はあらかじめプロデューサーによって組み立てられた図式に従って規定される。「文化産業は全体と部分とを同等に撃つ」(261.12)全体は 「出来事の寄せ集め」となり、他方細部は全体に奉仕する。部分と全体の緊張感を維持しつつ一体性をもつという近代的な作品概念の没落。

 

システム化される「逸脱」。

あらゆる規格的文化産業と一見そこからの逸脱ともみえる文化的事象が一体となってこのシステムを作り上げている。

「文化産業は効果以外の何ものにも頓着しない一方で、御しがたい効果の一人歩きを押さえつけ、[個々の]作品の代わりに[一般的]公式へそれを従わせようとする」(261.10)

「効果」は公式の範囲内でのみ許容される「逸脱」。あるいは「コントロールされた逸脱」としての「効果」。それは不断にイノベーションを繰り返すことで延命をする企業の姿とも重なる。これも一種の自己保存のための自己破壊といえる。

 

人間は。

「反抗する者は、ただ相手に組み込まれることによってのみ、生きることを許される。」(272.12)。「ひとたび文化産業からの差異ということで登録されれば、反抗者も文化産業に所属することになる」(272.13)。

同時にそれは企業における「新しいアイディア」でもある。「後期自由主義段階に対する大衆文化段階の新しさは、新しさを排除するところにある」(277.6)。

あくまでも既存の体制のなかでの「新しさ」の追及。

 

娯楽と労働。

「娯楽とは後期資本主義における労働の延長である」(282.5)。「工場や事務所での労働過程を回避することができるのは、ひまな時にもその過程に同化することによってだけである。」(282.12)労働の延長としての娯楽。「厳格にさだめられた連想のレール」(cf. ベルトコンベヤー方式の労働)でのうえで、場当たり的に「効果」を享受する。

文化産業は娯楽を用いつつ、娯楽を制限する。

「文化産業が娯楽に仕えることが欺瞞なのではない。そうではなくて文化産業が、自己生産をとげた文化のイデオロギー的な陳腐な筋書きの中に抜け目なくはいりこむことによって、楽しみを追放することが欺瞞なのである」(293.11)。

 

観客は。

映画の観客は画面の中の登場人物にあこがれつつ、しかしそれにはなれない。

「文化産業は、素朴な同一化へと人を招いておきながら、たちまちそれを公然と否認してのける。」(298.10)

「完成された類似性とは絶対的差異である。」(298.15)すなわち「どの人をとって見ても、すべて任意の誰かと取り換えることのできるもの、つまり代替可能な類似性の一つでしかない。個人としてのその人自身は絶対的な代替可能なもの、純粋な無であ」る。

誰かが何らかの「意味」をもつとしてもそれは偶然であり、運命は「不合理」へ反転する。

 

芸術作品もまた。

「文化産業においては、批判と同じように尊敬も消失する。」(326.15)

芸術作品は単に人々から受け入れられているからという交換価値だけで評価されるようになる。規格化された言葉やイメージが広告を通じて、瞬時に広まってゆく。