ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意思』(新潮社)

第三章「性の科学」

(まとめ)「性の科学(スキエンチア・セクスアリス)」という真理を産出する巨大な仕掛けにもやはり権力の関係が貫かれている。人々は自分の内にある性の中に内蔵しているが、当人には隠されている真理を見つけ出すために、性現象を他者に向かって告白する。そしてその告白を受け取ったものは性現象の当人につ いての真理を解読し、把握する者となる。この真理をめぐる言説の産出装置を通じて、性的欲望(セクシュアリテ)というものが出現した。この「真理を語れ」 と命令する「知への意志」に駆動されるセクシュアリテの装置に内在するのは権力の構造である。

 

「重要なのは」「人々が性の囲りに、そして性について、真理を産出する巨大な仕掛けを」「作り上げたということである」「性が真理の賭金として成立させられるに至った、ということなのである」(pp73-74)

西洋では「性愛の術(アルス・エロチカ)」は所有されず、かわりに、「性の科学(スキエンチア・セクスアリス)」が実践されている。「性の真理を語るために展開させてきた社会的手続きが」「〈知である権力〉という形へと本質的には整えられてきたということだ」(pp75-76)

「真理の産出にはことごとく、権力の関係が貫いている」(p78)

「幾世紀もの間、性の真理は、少なくとも本質的な部分においては、このように自ら言葉で表すという言説的な形態において捉えられていた」「その真理は」 「ただ言説のなかで、語る物と語られている事との間の絆、本質的帰属関係によって保証されているのだ。反対に、支配の機関は、語る者の側にはなく」「聴 き、かつ黙っている者の側にある。知っていて答えをする者の側にではなく、問い、しかも知っているとは看做されていない者の側にある。しかも、この真理の言説が効力を発揮するのは、それを受け取る者においてではなく、それが奪い取られる者においてなのだ」(pp81-82)

「最も奇怪な快楽が喚問されて、自分自身について真理の言説を語らせられた」「しかもその言説は」「科学の言説に連結させられたのである」(pp83-84)

 

「この性をめぐっての知への意志が、告白の儀式的規則を科学的規則性の図式のなかで機能させたその手法」(p84)

(一)「語らせること」の臨床医学的コード化によって。

「告白を検証と結びつけ、自己の物語を読解し得る表徴(シーニュ)ならびに徴候の展開と結びつけること」(p84)

(二)すべてに適用可能で、しかも拡散した因果関係を、公準として立てることによって

「すべてを語らねばならず、すべてについて訊問することができるという考えは、性が無尽蔵かつ多形的な〈原因となる力〉を担っているという原則にその正当化を見出す」「完全かつ詳細を極めた不断の告白という社会的手続きを、科学的な形の実践において機能させる」「性のはらんでいる無際限な危険が、性に課せ られた訊問の徹底的な性格を正当化している」(pp85-86)

(三)性現象には本質的に潜在性という特性が内在しているという原理によって

「告白はもはや単に主体が隠そうと思っていることを対象にするのではなくなる。そうではなくて、彼自身にも隠されており、少しずつ、しかも問う側と問われ る側が共に参加する告白の作業によってしか光のなかに立ち現れては来ないようなものを、対象とするようになったのだ。性現象に本質的である潜在性という原理によって、困難な告白の蒙るべき強制を、科学的実践へと有機的に連結することが可能になっている」(p86)

(四)解釈という方法によって

「真理は、語る者においては確かに現前しているが不完全であり、自分自身に対して盲目であって、それが完成し得るのは、ただそれを受け取る者においてのみである。この後者こそ、この不可解な真理のまさに真理を語る者なのだ」「彼は真理を握る主人となるだろう。彼の機能は解釈学的なのだ」「彼の権能は」「告白を通じて、そして告白の隠れた意味を解読することによって、真理の言説を構成することなのである」(p87)

(五)告白の効果を医学的レベルに組み込むことによって

「性は病理学的に高度に脆弱な場として立ち現れる」「このことはまた、告白が医学の介入に囲まれることでその意味とその必然性とを持つであろうことを意味する」(p88)

 

「百五十年近く前から、性についての真理の言説を産出するために複雑な装置が設定されている」「そして、まさにこの装置を通じて、性とその快楽に関する真理として、「性的欲望(セクシュアリテ)」と称されるような何物かが出現し得たのである」(p89)

 

「我々は性に真理を語ることを要求する」「我々は性に、我々に対して、我々についての真実=真理を語ることを要求する」「我々は性に、我々が直接的意識に おいて所有していると思っている我々自身についてのあの真実=真理の底に更に埋もれた真理というものをこそ語れと要求するのである。我々は性に向かって、 性の真理を、性がそれについて我々に語ったところを解読することによって語ってやる。性の方は性の方で我々に対して、我々についての真理を、それについて 我々の手に捉えられないものを明らかにすることによって語ってくれるのだ」(p91)

この真理とは「主体を主体そのものに対して捉え難くしているものに関する知である」(p91)

「主体における因果律、主体の無意識、それを知っている他者における主体の真理、彼[主体]自身が知らないことについての彼のなかにおける知、これらすべ てが、性についての言説のなかに自らを繰り展げる手段を見出したのである。しかしながらそれは、性そのものの帰属する何らかの自然的特性というものによる のではなく、この言説に本来的に内在する権力の策略によってなのだ」(p92)

「考慮に入れねばならぬのは、言説の、しかも権力の要請のなかに入念に組み込まれた言説の増殖である。多様な性的異形性の固定化と、それを孤立化させるば かりでなく、それを呼び出し、惹き起こし、注意と言説と快楽の中心としてそれを成立させることが可能な装置の成立である」

「性を、事物と身体の表面へと分散させ、それを刺激し、それを顕現し、それに語らせ、それを現実の世界に樹立し、それに真理を語れと命ずるプロセスなのだ」(pp94-95)

「このような知への意志に本来的に内在する権力の戦略というものを定義すること」(p96)