ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて De Visione Dei』(岩波文庫版)

 

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401~1464)はドイツの法学者、神学者。新プラトン主義的色彩をもつ神論を展開した。1453年に脱稿したと考えられている本書でも神秘主義的神学が解説される。豊富に比喩が用いられる。

 

de:奪格支配の前置詞。「について」などの意。

visione: visioの単数奪格。visioは「seeing,sight,vision,view」などの意。

dei:deusの単数属格。deusは「god,deity」の意。

※「観る」主体は実は曖昧(八巻:2001、148ページ)

またクザーヌスは「神theos」は「私は見る theoro」に由来すると考えていた(八巻:2001、148ページ)。

 

テーゲルンゼーの修道院長と兄弟たちに与える〈神を観ること〉に関する論考

神秘神学の極意を解き明かす。「聖なる闇に、最も単純で最も近づきやすい方法をもって体験的に導く」(12)。近づき得ないものに近づこうとする。永遠なる食事の試食として。

 

序言

どのようにして「人間に可能な方法で神的な事柄に向けて導」くか。類似の方法。

「万物を観ている人物像」の譬え。

どこから見ても、自分だけがその人物に見られているように感じる。同時に幾人見ても同様である。同時にすべての人と個々の人を見つめる顔。移動する眼。最初の想像不可能性。

「その眼差しによって見つめられていることを経験する人は、その眼差しがあたかも自分だけについて心を込めて配慮していてくれて、他の人を考慮することはないと思われるほどの仕方で、[実は]全ての人を配慮している」(16)

 

第1章 現れの完成は最も完全なる神によって証明されること

視力のある者たちの全ての眼差しの根源としての絶対的眼差しは、全ての現実的眼差しを凌駕する。

神とはこの真なる眼差しである。神>概念>像。

 

第2章 絶対的眼差しは、眼差しのあらゆる様式を包含していること

視力ある者において眼差しは多様である。それは感官及び魂の受動(情念passio)による。

これに対し、絶対的眼差しは全ての様式を包含するが、同時に「縮減の縮減」でもある。それゆえ最も単純な縮減と絶対的な眼差しは一致する。

(縮減contractioとは具体化・個別化のこと。「普遍→個物」(例:もの→椅子、机)は現れとしては「単純→複雑」となる。「〇の〇」という冗語表現は「〇を超越していること」)

 

第3章 神について述べられる諸々のことは、現実には相異するものではないこと

神は根拠の根拠。神においては視覚とその他の感覚、更に知性が同じものである(視覚と知性の一致)。所有=存在。運動=静止。

 

第4章 神の眼差しは「摂理」「恵み」、そして「永遠なる生命」と称されること

再び神の像。見放すことのない眼差し。神もまたしかり。「万物の絶対的存在であるあなたは、こうしてあらゆるものに対して、あたかもそれ以外のものには一切配慮していないかと見えるほど十分に、付き添って存在しているのです」(25)。

このとき、あらゆるものは自己の存在を他の存在に優先させる。「私」以上に神に愛される存在を想像できない。

眼差しのあるところには愛がある。「愛すること」は「存在すること」(「あなたの愛は…あなた自身」。「あなたが私と共に存在してくださる限りで、私は存在する」(26)。

さらに「観ること」は「存在すること」。「あなたが見つめていて下さるので、私が存在する」(26)。「観=愛=存在」。

受容する能力のある者に眼差しが注がれる。神に類似することの必要

※新プラトン主義にみられるある種のエリート主義か

神の似姿とは「自由意志」である。私が「自由意志」を行使しようとするとき、神はそれを見守る。「私」の生は神の愛であり、それゆえ「私」は生を愛する。

※生をおくる主体としての「私」が肯定される。

永遠なる生の観想は神の〈観〉でもある。

 

第5章 見ることは、味わうこと、探究すること、慈しむこと、作用させることである

甘美を味わうとは「あなたの知恵においてあらゆる願望の対象の根拠に到達すること」(30)。

「あなたの観ることは、私によってあなたが観られること」(30)

「あなたを観ることは、あなたを観ている者をあなたが観て下さること」(30)

※visio deiの二義性。

「あなたが私を見つめて下さらないということは、私があなたを見つめることがな」いこと(31)。罪人たち。

「観ること」は「動くこと」。神の動きは私の動きに随伴する。私が神に向き合った時、神は私を観てくれるが、神の〈観〉は私の〈観〉に常に先行する。「あなたが私に付き添って促して下さることがなければ、私はあなたのことを全く知ることがないのだから」(33)

※「像の譬え」が機能している。像の眼差しは常にそれを見るものの眼差しに先行する

「観ること」は「作用させること」。神は万物を恵む。

 

第6章 顔と顔を合わせての〈観〉について

神の真の顔はあらゆる顔の絶対的形相であり、質・量・時間・空間を超越する。

あらゆる人が神の顔に自己の真理を観る。人間が見るとき神の顔は人間、ライオンならライオン。

神の絶対性の議論に「私」の相対性が滑り込まされる?

神の顔はすべての顔において謎のように観られるが、それを探究するものはそれらを超越する必要がある。光そのものを観ることの不可能性。観ないことによって観る。

 

第7章 顔と顔を合わせての〈観〉のもたらすものは何か、そしてそれはどのようにして獲得されるのか

木の始原は種子であり、種子の能力のなかに木は可能的に存在する。

すべての始原は「知ることが可能で概念化されることが可能なあらゆる種子的能力を超越して」(42)いる。

種子は全能なる能力の展開。種子的能力はそれ自身の原因においては、絶対的能力となる。神はそれゆえ全ての本性の本性である。神を観るものは万物を知るものとなる。

どのようにして神を観られるか。私を私のものとすることによって。

「汝は汝のものとなるべし、そうすれば私さえも汝のものとなる」(44)。「さらにあなたは、このことを私の自由のうちにおいて下さったのですから、あなたは私が私自身になるのを選択するのを…期待しているのです」(45)。私の自由意志。理性が感性を支配する。このとき神は私のものになる。しかし、それも神のあらかじめの贈与のうちにある。

 

※八巻によれば、一般に神秘主義においては自己放棄が要請されるが、クザーヌスは逆のことを説いている(八巻:2001、152ページ)

 

第8章 神の〈観〉が、愛すること、原因となること、読むこと、万物を自身のうちに保持することであること

父は全ての子と個々の子を愛す。また神は全てを一瞬にして読むのと同時に、個々の人と共に読む。

主は眼そのもの。主にあっては観ることそのものが眼。われわれの眼は観の「媒介物」にすぎない。主の眼はすべてを包摂する。空間を占めるものとしての「視」?

 

第9章 神の〈観〉が同時に普遍的にして個別的であること、および、いかなる道が神の〈観〉に至るか

神の〈観〉をいかにイメージするか。神の本質が万物のなかにあるように、その眼差しも万物の中にある。個々のものの動きに応じて動くと同時に、止まっている。

反対対立の合致の認識へ。「不可能性が現れる場にこそ真理を探究しなければならない」(56)。「いかなる知性にも不可知なものであって、真理から最も離れているものであると全ての知性が判断するようなもの」に「あなたは居られる」(57)。絶対的な必然性=不可能性。

 

※八巻は楽園の「壁」について、これを「理性」であるとする。つまり、神の認識に到達することを妨げるのが理性であるということである。興味深いのは、人間が理性だけを行使するなら、「理性=壁」であることは認識されないという ことである。理性を超えた知性において初めて理性が壁であること、そのさきに神の楽園があることが認識される。さらに信仰は、その壁を通れば楽園に到達できることを教える。八巻:2001、158ページ。

 

第10章 神が諸々の矛盾の合致の向こうに見出されること、および観ることが存在することであること

矛盾を観てとる私は「反対対立の合致」=楽園の城壁の入り口に居る。主はあらゆることを同時になす。

神の観には先後は存在しない。永遠性においては先と後が一致する。

 

第11章 神における継時なしの継時はどのように観られるか

最も完全な時計の概念。個別の時間は時計の概念のなかに含まれる。そこには先後関係は存在しない。「時計の概念はいわば永遠性そのもののようなもの」(66)。永遠性の中に継時が含まれる。

神の本性を認識するために、私は二つの動きをする。

1.万物を包摂するものとしての神:被造物から神へ、結果から原因へ

2.万物の発出元としての神:神から被造物へ、原因から結果へ

数える人…「一」という単位をx回繰り返すことで、数える(一性の展開)。同時に「x」というまとまり(一性への包含)でもある。(242)

そこで「展開することは包含すること」(67)

※ここでは単なる「反対対立の一致」ではなく「一性と他性の一致」がある。

 

第12章 どこで不可視なものが観られ、非被造的なものが創造されるか

如何にして不可視な神を観るか。神の眼は「鏡」(反射)のようなものか?そうではない。また万物の可能態(放射)として、自身の内に万物を観ているのでもない。神はそれらを超えている。

神は同時に観る主体(一)であり、観られる客体(二)であり、観ること(三)そのもの。

「創造しつつある創造者」(理性的認識、壁の外)。「創造されることが可能な創造者」(知性の限界の認識、壁の中)。「絶対的無限」(不可知、楽園)。

 

第13章 神は絶対的無限として観られること

私は楽園のなかで何を観ているのか、わからない。神はあらゆる言表されうること、考えられうることを超えている。「知性の混乱」「知ある無知」(75)。

神は「無限なる〈終わり〉」。有限なるものは自己の外に、その「目的=終わり」を持つ。これに対し、無限なるものは自己において「終わり」を持つ。だが、これは「終わり」ではない「終わり」である。

無限性なくしてはなにものも存在しない。無限性は万物であると共に万物を包含する。「諸々の対立の対立」「対立なき対立」(77)。

 

第14章 神は他性なしに万物を包含すること

無限性の外に他性は存在しない。ではなぜ、あるものと別のものが区別されるということがあるか。その根拠はあるものが「全ての存在を包含している無限性そのものではない」(84)ため。つまり…ソクラテスを構成する諸性質はソクラテスという一性に包含されていると同時に、それら相互においては異なるものとしてあるということ。

無限性こそが存在者に存在を付与する。

 

第15章 現実的な無限性とは一性であって、そこでは像が真理であること

絶対的な可能性においては、可能態は現実態と一致する。質料の存在可能が現実態と一致するのならば、それは現実態でもある可能態である。現実態は多数なので、可能態は無数になってしまう。しかし無数と無限は違う。

無限性は多数ではありえず、それゆえ現実的無限性は一性と知られる。神においてはあらゆる存在可能が現実に存在する。そこでは無限な存在におけるすべての存在可能が無限な存在そのものであり、また無限な存在における全ての現実的存在もまた無限な存在そのものである。

神は「すべての存在可能」である。第一質料も感性的存在可能も理性的存在可能も縮減されている。全く縮減されていない可能が無限者と一致する。

神は神を観るものの形相を受け取るようである限りで、第一質料のようである が、「あなたを見つめる者があなたに形相を与えるのではなく、むしろ、彼は、自分が現に存在しているということをあなたから受け取っているのですから、自 分があなたのうちで見つめられているのです」(90)

我々が真実、神が鏡像なのではなく、逆である。神は影であり、本体でもある。神は人を自身に適合させる(キリストの派遣)。それによって人は神に近づいてゆく。自己愛としての神への愛。

 

第16章 神が無限でなければ、それは願望の〈目的〉ではないことになること

神は願望される真理。無限への愛は有限への愛より甘美。しかしその対象は把握することが出来ない。自己愛の停止(注167)。しかしそれこそが究極の〈目的〉である。

知性は知性認識ではなく、洞察されるものに満足する(注171)。ここにおいて人間の「引き上げ」がなされる。

 

第17章 神は三一的なものとしてのみ、完全に観られること

神は「無限に愛すること」(父、一)と「無限に愛されること」(子、二)の一致(三)。それゆえ神は愛そのものである。

ここで現れる「三なるもの」が完全性の証。「三」は一性でもあり、複数性でもある(第11章)。「三一性」は知解不能である。だが「自己愛」によって比喩的に理解できる。しかし、経験的には一と二の区別が存在するので、あくまで試食に止まる。

この著作がこれまで努めてきたことについて、神に弁明。

 

第18章 神が三一的でなければ至福が存在しないこと

神への愛=信仰へ。神は万物を愛するが、人間が神を愛するかどうかはそれぞれの理性的〈精神〉の判断に委ねられている。ここでもある種の選別主義。

愛するものとしての神(父)によって人間が愛されることが、愛されるものとしての神(子)への人間の愛をもたらす。

子イエスが愛されるべきものであり、知解されるものである限りで理性的本性が神と合一できる。このとき人間はほとんどイエスに近づく。「子であること」は「光」のようである(神=闇との対比か)。

 

第19章 イエスが神と人との合一であること

以下、イエス論が続く。愛する神(父)から生み出された愛される神(イエス)が神と人間を媒介する。子イエスのうちに万物が包摂される。

「あなたの合一と把握は、万物の現実態と展開が存在する場としての、現実態にして生まれ出る働き」(113)。

把握…conceptus 掴むこと、宿すこと

神とその把握を合一する神がイエス。イエスは「愛において愛するものと愛されるものとを結合する」「愛する働き」(114)のような運動として理解される。

子イエスは万物の根拠である。それゆえ神はイエスを通じて万物を働かせる。

人間の子はみな神の子にその本質を付与されており、イエスを通じて神と合一する。

 

第20章 イエスが神の本性と人間の本性の結合として理解されること

人間の本性が神の本性に合一する仕方は有限だが、イエスが神の本性に合一する仕方は無限である。イエスの人間の子としてのあり方は、神の子としてのありかたの似像。

人間はものを類似によって理解するが、これもイエスにおいて人間の知解が神のそれに合一しているため。

 

※薗田によれば、クザーヌスにおいて人間は比較conparatioによってものごとを理解する。比較においては同等性identitasと差異性differentiaの確認がなされる。比較においては、比較可能性が必要だが、無限なる神は比較不能であり、不可知である。さらに比較によってものの大小を知ることはできるが、そのもの自体を知ることはできない。このため人間の知は有限のものに対しても不完全である。薗田:2003、16ページ以下。

 

イエスの知解は被造物的なそれを凌駕する。

 

第21章 イエスなしには至福は存在不可能であること

 

イエスこそ矛盾であり、現世の人間には知りえない。イエスを観ることはすでに「天国と永続的な栄光」(125)のうちにあること。

イエスにおいて人は神に合一する。このときひともまた矛盾する。

 

第22章 イエスはどのように観ているのか、そして働いたのか。

人間としてあったとき、イエスは人間と同じように観、聴いた。しかし、それはあらゆる人間を凌駕する。

さらに神としてのイエスはものの実体を見抜くことができた。神の知性はなんらかの表象像に依存することなく行使される。

各々の被造物は完全性を有しているが、イエスはそれらすべての完成としてある。

 

第23章 生命との合一が続いていたにもかかわらずイエスが死去したこと

イエスにおいて人と神は合成されているのでもないし、媒介されているのでもない。また神であったり、人であったりするわけでもない。イエスは一つのペルソナである。

イエスの感覚的本性は知性的本性の内に存していた。知性的魂が肉体から離れず、肉体を生気づけることをやめるなら、肉体は死ぬ。知性はその命である。知性はその働きを行使していても、していなくても肉体に結合している。これに対し、知性が生気づける働きをやめるなら死ぬ。

イエスの死は、生気づける魂の引き去りであり、生命の分離ではない。そこでイエスはいちど死に、復活することができた。

 

第24章 イエスが命の〈言葉〉であること

イエスは命の〈言葉〉を広め、それに耳を傾けるものを甘美さのうちにおく。

人間は〈霊〉的に存在するより前に、動物的に存在する。

人間の感覚的〈霊〉の完成は肉体のそれに依存する。

人間の知性的〈霊〉は肉体に依存しないが、肉体なしには完成しない。

知性的〈霊〉は自由であるため、自ら自己を神の〈言葉〉に従属させることによって完成される。

知性は信仰によって神の〈言葉〉に近づき、愛によってそれと結合する。

神の要求は愛と信仰のみ。

 

第25章 イエスが完成であること

神の働きによって、それぞれの存在者の〈霊〉は自らの完成に近づく。職業の分離?

神の〈霊〉は知性的本性における秩序付けと配置だけは自己の元においた。世界全体はこの知性的本性のために創造された。それは画家が自画像を描くようなものである。

この自画像は多数である。

またイエスは神の究極的な類似として、その他の〈霊〉を媒介する。

眼に見える世界の総体は、私が神を知るための手助けとなる。

神はイエスという教師、強さ、希望を与え、栄光の場を予見させる。

神による引き寄せを請い願って、本論文は終わる。

 

・神の絶対性の議論のなかに、人間の主体性、可知・被愛的なものとしての神(イエス)が持ち込まれているのかもしれない。

 

参考文献

薗田坦『クザーヌスと近世哲学』創文社、2003年。

八巻和彦『クザーヌスの世界像』創文社、2001年。