カール・バルト『バルト ローマ書講解 世界の大思想33』(河出書房新社)

 

 バルトの基本的な構図:矛盾的二律背反(アンチノミー)……罪と恵み、然りと否、死と生、過去と未来、有限と無限、肉と霊、など

 →神はアンチノミーを超越した存在であり、人間はアンチノミーの中にとどまらざるをえない。このアンチノミーは我々人間がただその片方にだけ寄るのでも、その中間で曖昧に生きるのでもなく、そのアンチノミーを人間が実存的に引き受けた時、そのアンチノミーによって引き裂かれる体験をしたとき、初めて人間はそれを超越したものとしての神と向き合うことができる。

 

  第6章 恵み

 肉の存在としての「この人間」は根源的に罪の存在であり、その罪の赦しとして恵みは捉えられる。恵みを受けたものは罪人「この肉としての古い人間」としては死滅し、新生する。この古い人間の死と、それが意味する恵みの比喩として神がこの有限の世界に遣わしたものがキリスト・イエスであり、彼の死が古い人 間の死と新しい人間としての恵みである。キリストの苦難と死、その肉としての生涯と死は絶対的なアンチノミーであり、それを「われわれが」自らのものとし たとき、われわれは神自身の生の可能性によって生きることができる。肉の存在、限定的な存在としての人間には不可能性という壁がそびえ立っているが、それに対して、キリストの復活、すなわち死から生への不可能な逆転こそが恵みでありわれわれの恵みの証しである。恵みの存在は罪とは断絶し、調停、平衡、中間 的解決はありえない。

 

 恵みとは神への従順の力であり、恵みを受けた人間は神の欲する生を生きる。神の欲する生とは神とともに「神の自由」において「神のなすこと」をなすこと である。だが、これは此岸の人間、神を不可知とする人間にとって個人的存在(ダア・ザイン)とその在り方(ゾオ・ザイン)における罪から解放されることではない。人間は実存的存在として、真理を非所与とする存在として、自らにとって自らが攻撃者とならざるをえない。我々は神の否を聞かざるを得ず、自らの 「然り」を実存的に否定し続ける。不可知の「神の義」に生きようとする、生きざるを得ない人間は、不可知の「神の自由」にとらわれて生きる。

 

 恵みとは神による人間の支配である以上、それは生きる人間にとっての徹底的な危機であり、可死的なものが不死性を着る、恵みによる復活の未来という不可能なものの可能性である。恵みはキリストの死人からの復活という神の不可視的恵みによって啓示され、直視されうる。そして恵みを受けた人間は私でない私として新生するが、そのときに神と人間の関係は直接法(人間は~である。~をする)から、神からの命令法(~になれ。~をしろ)となる。それは人間が「聖化」されたことを意味し、そして人間には不可能な要求、「いま」と「ここ」を廃棄すること、此岸の消滅あるいは此岸と彼岸を分かつ深淵を超えることが可能 になったことも意味する。

 

 人間は生の概念を死において獲得するが、キリスト・イエスにおける死とそこからの永遠の生こそが恵みであり、我々はそれを恵みとして彼岸において受け取る。