フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)

第2章「魔術的物語」

〈3〉構造的方法の歴史化

[プロップの「構造的」方法について]「物語相互の構造的相同性を証明するなどというのは、つまりは、それにあわない物語は除外してしまい、その結果、最後に扱った物語群だけを意気揚々と正当なものとして認可するということなのだ」p210

→プロップの作業はあらかじめ「当てはまる」物語が想定された上で、それに当てはまらない物語を除外しており、結論先取の作業である。

 

「プロップの分析の続行は、一連の続篇的エピドードの解説にすぎない」「プロップによる一連の機能は、まだあまりにも意味をなしすぎている」p212

「プロップのようにおとぎ話における連鎖が、こうであってそれ以外ではないと語ることは、(略)最終的で得たいの知れないものを、究極的に「意味をなさない」ものを、私たちにつきつけるものなのだ」p213

「プロップの分析で、最後まで削れないで残る核心部分は、物語の通時性そのもの、時間の流れに沿った物語り(ストーリーテリング)の発展である」p213

「プロップのモデルの定式化の不十分さ(その擬人観的(アントロポモフィック)な痕跡)と、そのモデルが規定する機能の並べかえ不可能性とは、ある基本的 な誤りの別々の面にすぎないのである。すなわち、分析の対象にした物語群をまた別の物語で書きなおすだけで、共時的な体系で書きなおさなかった、という誤 りである」p214

→プロップの分析は物語をプロップの定式化した通時的物語へと還元するだけであって、物語の通時的構造までは解体しておらず、物語の共時的意味までは達していない。

 

「「擬人観的」なもの、つまり表層的表現または物語に具体的にあらわれたものの痕跡を完全に除外してしまって、はたして、物語のシステムが考えられうるのかどうか(略)プロップもグレマスも、物語的「機能」と物語の登場人物とを、あるいはもろもろの物語的単位と《行為体》(アクタン)とを区別している。だがプロップにおいては、機能は純然たる出来事にほかならず、いつもなんらかのかたちで意味素的カテゴリーによって書き換えられることができるため、究極的 な定式化に資するほんとうの問題は明らかになにも提起してくれないのである」pp214-215

「このような《物語分析》の決定的盲点あるいは難点(アポリア)は、(略)登場人物がその主体のための場所を確保できないということに、見出すことができる」p215

→登場人物は機能に還元され、主体足り得ない。

 

[プロップとグレマスの仕事は]「物語研究の脱擬人観化にむけて、真の進歩をしるしているように思える。[だが]もし行為体が変換され、機能に構造的に従属させられるなら、(略)物語機能の概念は枷をはめられ、擬人観的説明の究極的な核心に縛りつけられることになる」p215

「この擬人観的説明の削減できない核心部分(略)は、物語機能をひとりの人物のなす多くのおこないへと致命的に再変形してしまう。ところが、このような擬人観的な人物像は、つねにこうした分析の理想である定式化に本質的に抗い、その定式化に還元されないのである」pp215-216

→脱擬人化により全てのロマンスを構造的に還元すると、登場人物の固有性は失われ、物語とはただ構造的に規定された「一人」の登場人物が構造的に規定された「さまざまなおこない」をするだけのものとなり、それは物語を擬人観的な定式化された型にはめることにしかならない。

→しかし、この擬人観的な人物像が定式化に還元されない余地をこれから見出していくことになろう。

 

[レヴィ・ストロースの]「『神話学』は、(略)《行為体》や物語の通時性といった基礎的概念をきちんと除外するという離れ業をもやってのけるのである。 この逆説を含んだ偉業を可能にする鍵は、(略)物語素材の社会的起源の中に見出される。それは全個人的な物語である。つまり、このような物語の出現をみた社会環境では、心理的主体は、まだそういうものとしては構成されておらず、したがって、のちになって生まれた主体のカテゴリー、たとえば「登場人物」「は、 そこではまだ意味をなさなかった」pp216-217

→物語の原型としての神話の時代において登場人物といった心理的主体はまだ存在しなかった。

 

「プロップやグレマスのジレンマは、それ自体、方法論的ジレンマというより、むしろ歴史的なジレンマなのである。個人的主体のさまざまなカテゴリーを、主 体の出現以前の物語に時代錯誤的に投影する一方で、後世の物語(たとえば、十九世紀小説)がそれをつくりだし投影するのを密かな目的としていたイデオロギー的カテゴリーを、思慮を欠いて、その物語分析の論理に組み入れて考察しようとしないところに、プロップやグレマスのジレンマが生まれるのである。つまり、 記号論的そして物語的方法のもつさまざまなカテゴリーを弁証法的に批判するには、そうしたカテゴリーを歴史化しなければならない」p217

→歴史的視点なきカテゴリーの当てはめへの批判。

 

「グレマスの《行為体》理論においては]「ひとりの登場人物が実は二つの別々の《行為体》のはたらきを包みかくしていることを示して、「登場人物」という表層の単位を分析的に分解したことであろう」p220

「プロップのモデルも、より複雑なグレマスの物語システムも、物語テクストがその基本的図式からなんらかの点で《逸脱=漂流》するとき、生産的なものとなるということだ」p220

「善と悪、愛と金、「二枚目の」役割と家長的悪役の役割、といった二者のあいだに、複雑な意味素的混同が生じる」「記号論的読みが実証してくれるであろう 物語モデルから(略)、このような複雑で独特な逸脱がその物語モデルから生じる理由を歴史的に問いただす方向へ進むことになる。(略)このような逸脱が意 義深い象徴行為として理解されるための歴史的根拠を、ここで素描しておこう」p223

[嵐が丘のヒースクリフについての分析をうけて]「まず最初のレベルの記号論の基礎的約束事(コンベンション)を尊重して、つまり、テクストをプロップの物語連鎖または「深層構造」のまさに複製とみなして、分析・整理することからはじめなければ、作品のこのような特徴を看破することはできない」p225- 226

→構造的読解から逸脱するところに歴史的な象徴行為としての登場人物の造型が現れてくる。