テオドール・W・アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)

第1章「文化批判と社会」

「ヘーゲルは(略)自分は偶然的で制約されたものでありながら、いま存在しているものの暴力を裁こうとする主観の欠陥を繰り返し叱った。しかしその主観そ のものがその最内奥の連関にいたるまで独立した超然たる主観として、主観がそれに対置されているその当の概念によって媒介されているところでは、そういう 主観の欠陥は我慢ならないものになる」(p9)

 

「批判者の空虚な虚栄心は文化の空虚な虚栄心を助長する。慨嘆する身振りのうちに、彼は孤立無援、不偏不党であるかのように、教条的に文化の理念を墨守す る」「批判はそれに固執することによって、その精神的なものが人間に見放されていることを、いかに弱々しくであろうと望む代わりに、語り得ないもののこと を忘れたいという誘惑に陥るのである」(p10)

 

「文化批判者は、しばしばその後塵を拝するにすぎないにもかかわらず、彼の態度いかんでは、そういう不埒な文化からの差異によって、いま支配的なこの非道を理論的に超え出ることもできるのである」(p10)

 

文化批判者の誕生までの歴史と現在(pp11-12)「批評家自身もまた市場での成功によって評価されるという状況に由来する。したがって、それは彼が市場で成功した者であることを物語っている」「[批評家たちの]客観性は、支配的な精神の客観性にすぎない」(p12)

 

「自由な意見表明という概念、いや文化批判がそれに基づく、市民社会における精神的自由そのものの概念は、それ自身の弁証法をもっている(略)現在それ [精神]は人間間のあらゆる関係の社会化が進展するにつれて、ますます既存の諸関係による匿名の制御に堕してゆき、この匿名の制御が単に外から精神を襲う だけでなく、精神の内在的性質に成り変わってしまったからである」(p12)

 

「精神は単に市場での自分の売れゆきを目指して態勢を調え、それによって社会的に支配的な諸カテゴリーを再生産しているだけではない。精神が主観的に自分 を商品化しないところにおいてすら、精神は客観的に既存の体制に同化する」「自由の仮象が自分自身の非自由についての省察を妨げて、自由が明白な非自由と 対立していた頃とは比較にならないほどそれ[自由]を困難にし、全体への依存性をいっそう強める」「精神がその自由から繰り広げるものは、無計画的モナド 論的状態の遺産である無責任という否定的継機だけである」(p12-13)

 

「文化は「潜在的に批判的なもの」としてのみ、真である。このことを忘れた精神は、自分が培養した批評家たちにおいて、それ自体として復讐される。批判 は、それ自身が矛盾に満ちた分あの不可欠な要素であって、いかにそれが偽りであろうと、文化が偽りであるのに比例して、それは真である」(p15)

 

「文化批判の最高の物神は、しかし文化の概念そのものである」(p16)「全体となって生存の全領域の上に広がった非道の歪曲的痕跡をすっかり清められた 純粋さの理念は、屈折し、自己自身のなかに取り戻されてはじめて市民的文化の前に現れるからである。この理念は、それがおのれ自身と反対のものに落ちぶれ た実践から身を引く、つまり相も変わらぬもののつねにあらたな産出から身を引き、文化を意のままに処理する人々のために顧客へのサービスから、したがって 人間から見を引く限りにおいて、人間への信義を守っている」「そういう絶対的に独自な実体への集中は同時にこの実体の空洞化を惹き起こす」「精神は単に存 在するものの補佐役になり、みずからも単なる存在者となる」(p17)

 

「それ[?文化の去勢?]を惹き起こしているものは文化が〈自己自身にとって文化となること〉、したがって経済優先という野蛮状態の増大に対する文化の力 強くかつ首尾一貫した反対である」「文化は中性化され物象化されたものとなってはじめて偶像化される。物神崇拝は、その重みが増すにつれて神話となる」 (p18)

 

「精神の物質的生産からの遊離は、たしかに精神の評価を高めはする。しかしそれは一般的意識において精神を、実践が犯した罪を償うスケープゴートにする。 現実的支配の道具としての啓蒙でなく、そのものとしての啓蒙にその責任があるというのである。ここから文化批判の非合理主義が生まれてくる」(p18)

 

「文化批判が指示する永遠的諸価値は、永続する災いの反映である。文化批判者は、文化の神話的なしぶとさによって養われている」(p19)

 

「文化批判が実際に世にある姿はその内容の如何にかかわらず経済組織に依存するから、それはこの組織の運命に組み込まれている」(p19)「完全に飼い馴らされ、管理され、隅々まで教化されたものとして、文化は壊死する」(p20)

 

「その時々の体制側の秩序を単に意識のなかで再生産すればそれでよしとする思想が真理となるのは、そうした秩序が万物の尺度として受容されるときだけであ る。文化批判はそれを指摘し、その浅薄さと実体喪失を憤慨する。しかし文化批判は、文化の商業とのもつれ合いのもとにじっと留まっているから、その浅薄さ を共有している」(p21)「文化批判は、単にイデオロギー批判に留まっている限り、イデオロギーである」(pp21-22)

 

「純粋な自律的文化という近代的概念は、他のための存在者に対する妥協のなさによっても、おのれを自体存在として即位させるイデオロギーの傲慢さによっても、敵対関係が融和できないまでに成長したことを証言しているのである」(p23)

 

「社会は現に見る通り、あらゆる不条理にもかかわらず既存の諸関係のもとでその生を再生産しているという事実は、それを正統化するかのような仮象を客観的 に造り出す。文化は敵対関係を含む社会の自己意識の総体として、それ自身の理想によって文化を測るあの文化批判と同様に、こういう仮象を諦めることはでき ない」(p24)

 

「たとえ精神の表現するものが眩惑であるとしても、精神は同時にイデオロギーと現存在との不一致に動かされて、イデオロギーの束縛を逃れようとする試みを表現している」(p24)

 

「弁証法的批判は、文化の概念そのものの廃棄にいたるまで文化批判を高める点において、いわゆる文化批判とは一線を画するのである」(p26)

 

「文化の内容は純粋に文化そのものの内にあるわけではなくて、文化の外にあるもの、すなわち物質的生活過程とのその係わりのうちにある」「文化批判は、全体のなかでのおのれの地位を洞察することによって、文化に対していつも可動性を保っている」(p26)

 

「今日、理論は本当はもはやほとんど存在しない。イデオロギーは、いわば不可避的な実践の歯車装置から響いてくるにすぎない」(p27)「イデオロギー論はいまや認識の手段から認識を意のままに操作する手段となった」(p28)

 

「文化は、主観的にたくらまれた客観的精神の操作の総体としてだけでなく、はるかに広い範囲にわたって私生活の領域としてもイデオロギー的になっている」 「文化が社会過程の添え物としてしか続かないという事実を隠蔽する」「全体が自然発生的要素を失い、社会的に媒介され濾過されて「意識」となる度合いが多 くなればなるほど、全体はますます「文化」になる。そして最後に、物質的生産過程そのものがイデオロギーであることが明らかになる」「反対に意識は、同時 にますます全体の統率における単なる通過点になる」(p29)

 

「文化超越的な地位は、精神の領域の物神化に屈服しない意識として、ある意味では弁証法の前提となっている。弁証法とは、あらゆる物象化に対する非妥協を意味する」(p30)

 

「今日では、イデオロギーという社会的に必然的な仮象は、社会の総括的権力と不可避性、その圧倒的な現存在自体が、この現存在によって根絶された意味を代 替する限りにおいて、現実の社会そのものである。こうした社会の呪縛を免れた立場を選ぶということは、浮世離れしたユートピアの建設と同じように虚構的で ある」(p30)

 

「内在的方式は、いっそう本質的に弁証法的な方式として、これ[社会主義的超越的文化攻撃]に抵抗する」(p31)「内在批判にとって成功したと言えるの は、(略)諸矛盾を純粋に、頑として、自己の最内奥の構造に刻み込むことによって、調和の理念を否定的に表現するような形象である」(p32)

 

「他方、弁証法的方法は今日、ヘーゲル風に主観と客観は同一であると自分に言い聞かせることがますますできなくなっている」「弁証法的方法にとっては、そ れを告発することが弁証法の義務である、あの物象化の徴候としての、外から侵入する認識と内から侵入する認識の対立をのものが疑わしくなる」(p33) 「真の理論も含めて、いかなる理論もいったん客観への自発的係わりを放棄してしまうと、妄想へと倒錯することから守られていない」(p34)

 

「唯物論的に透明な文化は、より唯物論的に誠実になったのではなく、単に低級になったにすぎない」「今日ではすべての伝統的文化が、中性化され、しつらえ た文化として、なきに等しいものになっている」(p35)「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くこ とは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の 一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、こ の絶対的物象化に太刀打ちできない」(p36)